肺炎のため89歳で亡くなったプロ野球、巨人の長嶋茂雄終身名誉監督。
死去から一夜明けた4日、愛弟子の松井秀喜さん(50)がアメリカ・ニューヨークから帰国。
弔問に訪れ、恩師の亡きがらと対面しました。
松井秀喜さん:
2人きりでずっと色んな思い出を呼び起こしながら過ごしていました。監督との出会い・縁がなければ松井秀喜という野球選手は全く違った野球人生を送ったと思うんですよね。
1992年のドラフト会議で、4球団が競合する中、長嶋さんが抽選で引き当て、巨人に入団した松井さん。
入団後は、長嶋さんが立てた育成プラン「4番1000日計画」のもと情熱的な指導を受けました。
球界を代表するスラッガーへと成長し、その後、海を渡った松井さん。
選手時代の恩師との鍛錬の日々について…。
松井秀喜さん:
素振りで会話したといいますか、素振りを通じて野球選手としての大事な部分を授けてくださった。いち「松井秀喜」という野球選手において、最も大切なことを授けてくださいました。
引退後の2013年には、長嶋さんとともに野球史上に数々の輝かしい功績を残したとして国民栄誉賞を受賞。
松井さんの投げたボールを左手1本で打とうとする長嶋さんの姿は、日本中に勇気を与えてくれました。
松井秀喜さん:
長嶋さんは1人なんですけど、私からしたら、たくさんの顔を持つ方だった。2人の時間を私に授けてくださった。たくさんの全てに「ありがとうございました」と伝えさせていただきました。
そして、長嶋さんの思いをこれからどのように受け継ぐのか聞かれると…。
松井秀喜さん:
長嶋監督とは生前、約束したこともありますので。ここでは今お話しすることはできませんけど、その約束は果たしたいなと思います。
その後、現役時代に長嶋さんに鍛えられた中畑清さんも弔問に。
中畑清さん:
「これからも目標にして頑張ります」と伝えさせていただきました。現実は悔しさでいっぱいです、それだけです。
また、自身も巨人の監督を務めた高橋由伸さんは…。
高橋由伸さん:
今にも笑い出しそうな表情だった。長嶋監督だったからこそ、僕もジャイアンツに入ったと思いますし、導いてくれたのが監督だったと思いますし、本当に感謝の思いでいっぱいです。(私が)監督になってからの方が、2人で話す機会も増えたかなと思うし、厳しく怒られたこともありますけど、本当に支えてくれた。
太陽のような明るさで日本を照らし続けてくれた長嶋茂雄さんの死去から一夜。
東京・稲城市にある2軍の本拠地に設置された記帳所には、長嶋さんがヘルメットを飛ばしてフルスイングする写真や、現役時代のユニホームやグラブ、バットなど愛用の道具が展示されました。
思い出とともに別れを惜しむ多くのファンの姿。
70代:
巨人の大ファンで(家族を)代表して来た。(地元一緒で)すごい誇り、身内のような感じ。感謝しかない、神様じゃないですか、神様より上。だから何やっても、三振も素晴らしいし、もちろんホームランも素晴らしいけど三振も絵になる。
60代:
天覧試合で、あの時すごくアンチ(巨人)だった。「えぇなんでこんなところでホームラン打つの?」って、長嶋さんだけは特別。長嶋さんだけは(アンチ巨人でも)好きだった。
50代:
小さいときから、小学校の野球を始めたくらいから巨人ファン。「長嶋さんと誕生日(2月20日)が一緒」と自慢することもいまだにある。
中には若い世代のファンの姿も見られました。
20代:
(Q.長嶋さんを知ったのはいつ?)おじいちゃんたちに野球見に来させてもらって、それで巨人を応援して知ってった。(長嶋さんは)すごすぎて、ずっとあり続ける存在かなと思う。人間いつかは亡くなっちゃうけど、ずっと居てほしかったです。