日本が戦争への道を突き進んでいた昭和初頭。
城端からも多くの若者が出征しました。
その度に、町を挙げて兵隊送りの儀式が行われました。
召集に応じて戦地におもむく若者に毎回、城端時報社の同人がこう伝えました。
『町やお友達へのおことづけや何かに『時報』が役立つ事があれば、どんどん御利用下さい。私どもは銃後の一つの務めとして、ささやかながらもその労を執らせて頂きたい』
軍事郵便で直接、時報社に届いたという戦地からの手記は何よりも尊いニュースとして掲載されました。
そしてその紙面は戦地に送られました。
『御紙で黒川由之君の町葬や写真を見て、パラパラと涙が出ました、残念なことでした。戦場に立ってから、近日の戦闘ほど苦しい戦いはありませんでした』
日中戦争を契機に国家総動員法が施行された1938年、昭和13年、城端時報は廃刊しました。
あらゆる物資の統制運用で紙の原料、パルプの入手も困難となり、国策に応える以外の選択肢はありませんでした。
当時の状況を物語る史料が近くの寺に残っています。
戦時中、ここに疎開していた棟方志功が描いた襖絵です。
*光徳寺 住職 高坂道人さん
「これ、3枚の紙になっているんですけど、この辺にちょうど繋ぎ目がありますし、下の方にも繋ぎ目がありますね」
あらゆる物資が不足し、襖の大きさの1枚紙も手に入りませんでした。
棟方志功が新聞紙に描いた絵、戦時下の厳しい暮らしの中でも文化を守る気概がこの地にあったといいます。
*光徳寺 住職 高坂道人さん
「この辺の人たちの文化度は高かったんだと思います、だから棟方志功もこうして受け入れられる土壌もあったし」
「うちの祖父ももったいなくて新聞だけど貴重なものだということで取っておいたんだと思います」
終戦から半年、昭和21年2月。
『再刊の辞、城端時報は今度、筆(ふで)硯(すずり)を新たにして再刊することになりました。民主日本の新生に、平和日本の育成に応分の寄与をしたいものと念願しているのであります』
*鈴木大拙館 館長 木村宣彰さん
「使命感がある、そういうものじゃないと続かない商売の損か得かの範疇に入ったら儲からないから辞めましょうということになるんじゃないですか。城端時報の同人の方々、先輩たちは皆そう思って続けてきたんですよ正しいもの、地域のものを歴史を残したい、記しておきたいという気持ちで今日まで伝わってきた」
城端出身で金沢市にある文化施設、「鈴木大拙館」の館長木村宣彰さんです。
地方紙で連載されている自らのコラムで城端時報の記事を引用しました。
*鈴木大拙館 館長 木村宣彰さん
「城端時報は地域の人々が語り合っていること、知りたいと思っていることの事実を記している、結果的には歴史を正しく伝えている」
地域の歴史として信用できるのも城端時報に「ただ地域を思う」「利他」の精神が
息づいているからだといいます。
*鈴木大拙館 館長 木村宣彰さん
「同人の人々は、これを編集し、出版し、皆さんに配っているわけですよ、大変なこと、尊いこと、それは100年前のものをそのまま継承していることではないかと思います」
4月号が出来上がりました。
*城端時報社 同人 永井良幸さん
「私の配達分。このインクの匂いがね、やっぱり、やっと刷り上がってきた、届けることができるという満足感、携わってよかったという瞬間ですね」
*城端時報社 同人 永井良幸さん
「おはようございます」
*城端時報社 同人 永井良幸さん
「今月号、お待たせしました」
*城端時報社 同人 永井良幸さん
「城端時報です、ありがとうございます」
*城端時報社 同人 永井良幸さん
「時報お持ちしました、昨日ありがとね」
*購読者
「どうもどうも、わざわざありがとうございます」
*購読者
「ずっと昔からやね、親父がいた時からずっと来てもらってるから」
*購読者
「いつも読んでる」
*購読者
「あなたもいつも書いていらっしゃる」
*購読者
「ありがとう」
*城端時報社 同人 永井良幸さん
「嬉しいです、そういう声を聞くと 私が書いていることを認識しておられた。これも嬉しい」
地域のための小さな新聞、この町に城端時報はあります。