岩手県盛岡市「仙北」の地域には現在は様々お店が立ち並ぶ。
仙北2丁目にある駅は、何故「仙北駅」ではなく「仙北町駅」となっているのか、また「仙北」の地名の由来とは…。

長年にわたり県内各地の地名について調査している宍戸敦さんは次のように説明する。

宍戸敦さん:
仙北は最初『仙北町』という地名だった。その南側のところに『仙北組町』ができ、さらに江戸時代の終わりごろに仙北町の西の方に『青物町』という町名ができる。最終的に『仙北町』は三つの町名に分かれていく。

『仙北町』は江戸時代前期、27代藩主・南部利直の時代に秋田県の仙北地方(現:大仙市周辺)の人が移住して商いなどを始めたことによって始まっている。

仙北2丁目、3丁目辺りが『仙北組町』と言われていた場所だが、組町というのはいわゆる『警備の町』。奥州街道から色々な人がやってきて警戒が必要となり、城の南と北のところに警備の者を配置した。『仙北組町』は、そういう役目を果たす人たちが住んでいた。

『青物町』は、仙北町の西側で主に野菜や種物が栽培された地域だ。北上川・雫石川が豊かな土壌を運んできたことで、農作物の栽培に適した土地だった。そこから種物を商売にして遠くの方まで販路を拡大し栄えたと聞いている。

「青物町」と名付けられるほどこの地域はかつて野菜の生産に適した土地だった。そうした背景から、この地域には種や苗を売る「種苗店」が立ち並び、当時あった店のいくつかは現在も営業を続けている。

ーー山清商店の歴史について

山清商店 前澤清社長:
1810年に七代目・山田清之助が種の販売を始めたと言われている。215年の歴史がある。
江戸初期に秋田の仙北地域の人々が移住してきて、川向こうの西南地区に住み着いて、田畑を耕しながら商売を始めたと聞いている。
この地域が南部藩の野菜地帯だった。北上川は当時よく氾濫したが豊かな土壌になり種屋が発展した。
昔はここに大きい種屋が5軒あったので野菜地帯だったということ。

まさに仙北の由来となった秋田県の仙北地域から移住した人々の歴史が、脈々と受け継がれている。

古くから「仙北」にあるものは商店だけではない。仙北一丁目には歴史を感じるケヤキがある。

仙北在住 鈴木旭さん:
(Q:ケヤキの樹齢について)若いころで250年くらいの年数なので、今は300年を越えている可能性もある。ここに(高屋稲荷)神社があったので、神木に近いと地域はみていた。

ケヤキの隣には高屋稲荷神社があったが、取り壊して現在はご神体を大宮神社に移している。

仙北在住 鈴木旭さん:
ケヤキだけは切らないでこのまま保存しようということになった。町内の一つのシンボル。

盛岡の中心部から北上川を渡った先にある町・盛岡市「仙北」。その街並みには、今も遠い昔の面影が残っている。

岩手めんこいテレビ
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