今年も台風が日本列島を襲い、各地で猛威を振るった。

1年前の記憶が蘇る。2019年の9月、千葉県を台風15号が襲った。

大きな被害に見舞われながらも、傷跡が残る南房総地域で伝統を絶やさない為にうちわを作り続ける職人たちがいる。

千葉南房総の伝統工芸「房州うちわ」

「あんた、こんだけ(1時間20分)撮ったんだから全部放送しなさいよ」

海と山が広がる温暖な土地。千葉県南房総。
少々荒っぽく聞こえる言葉遣いは、この土地ならではの愛嬌のひとつ。

「多くの人にこの魅力を伝えたい」

宇山まゆみさんは南房総地域に伝わる伝統工芸の房州うちわ職人だ。

うやま工房 宇山まゆみさん
うやま工房 宇山まゆみさん
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「はじめるよ」

そう声を掛けると竹をバケツから取り出し割き始める。

ぱきぱきと音を立てる竹。

「んー。これは、あんまり。・・・うん。これはいい音だ」

割く音を聞いただけで竹の質、性格がわかるという。

同じ場所で採られた竹でも、太陽のあたり具合などによって柔らかさや肉質が違ってくる。一本一本の違いを見極めながら作業工程を進める。

曲げると折れてしまいそうな細さの竹が、しなやかな美しい曲線を描き、一本また一本と割かれていく。

1本の筒状の竹は、1ミリ程の竹骨40本以上に割かれる。

「どこかの工程で折れたりしたら商品にならない。(作業中は)もうそこだけに夢中になる。油断があるとどんな些細なことでも失敗するからね。そうすると21工程につながらなくなる。だから、一工程一工程がすべて真剣。最後まで気は抜けない」

うちわは、竹の採取から仕上げまで21の作業工程を経て、できあがる。全て、職人の手作業。

南房総産の竹を使用

房州うちわにとっては、しなやかで柔らかさのある材料の竹が、繊細な職人の技術と共に重要だという。

だから、うやま工房では地元南房総産の竹を使うことにこだわっている。

プラスチックや中国産の竹を使用したうちわが多く出まわるなか、どうして地元南房総産の竹にこだわるのか。

南房総の竹とプラスチックのうちわでは“しなりが生む風が違う”と宇山さんは言う。

「房州うちわの魅力は、しなやかな風、優しい風が来るっていうところだと思います。竹自体がとてもしなりがいいんですね。柔らかくて。そのしなりの良さが風になって出てくる。プラスチックだと固いでしょ。だから、風も固いかなって思います」

先代職人から工房を引き継ぐ

宇山さんの父、先代の宇山正男さんは1991年、うやま工房を立ち上げた。

南房総地域で竹を採取する人が少なくなり、中国産の竹を使用したうちわが多く作られるようになったからだ。

正男さんは、紙を貼る前の状態まで仕上げられたうちわ骨が中国から送られてくる状況に、「職人の仕事がなくなる」と危惧し、南房総産の竹選びから完成までの工程にこだわった。

正男さんのうちわ作りを間近で見ていたまゆみさん。
子供たちにうちわ作りを教える教室を手伝うために、48歳で本格的にうちわ作りを始めた。

まゆみさんにとって正男さんは、父親でありながらも尊敬する「うちわ職人」。職人としては、手が届かない存在だった。

正男さんは、10代から86歳で亡くなるまでこだわりを持ってうちわを作り続けた。

まゆみさんは正男さんの意志を受け継ぎ、父がうちわを作り続けた大切な工房でうちわを作り続ける。

「父は、何十年うちわを作っていても気に入ったうちわは何本もないと言っていた。だから私もこれから何年生きるか分からないけれども一本でも二本でも気に入ったものが出来れば最高かな」

丁寧な手捌きで青い糸と竹が編まれていく。

うちわといえば色鮮やかなうちわ紙の柄に注目してしまうが、竹が編まれた「窓」と呼ばれるうちわの要となる部分もとても美しい。

一つ一つの工程で竹に向き合う宇山さんの目は、真剣で真っ直ぐだった。

関東大震災で「江戸うちわ」から「房州うちわ」に

江戸時代に関東で始まったうちわ作りを支えたのは南房総だった。節が長く柔らかい南房総産の竹が、うちわに適していたからだ。

南房総から送られた竹は、江戸の問屋に運ばれ職人によってうちわに仕上げられ、江戸の夏の涼には欠かせないアイテムになっていた。

東京・日本橋小舟町、かつて堀江町と呼ばれたこの場所には、江戸で消費される様々なものが水運によって運ばれてきていたという。うちわに使われる竹もその一つ。

「最初は、紙製品と竹製品を扱う商いをしていました。紙と竹でうちわが出来ますね」

日本橋小舟町に江戸時代から店舗を構える、扇子とうちわの老舗・伊場仙の吉田誠男取締役社長。

伊場仙 吉田誠男社長
伊場仙 吉田誠男社長

「それまでうちわというのは京うちわなど高級品でした。江戸うちわは、一般の人が買えるようなものにしようと始まりました。」

歌川豊国、歌川国芳、歌川広重など有名な絵師たちが描いた絵を貼った「江戸うちわ」は、人気を博した。今では海外にコレクターがいるという。

江戸時代、堀江町には約20軒のうちわ問屋が軒を連ねていた。しかし、現在は伊場仙一軒だけとなっている。

「うちわの需要が減り、多くのうちわ問屋は廃業していきました。」

うちわの需要の減少。そして、関東大震災の発生により堀江町のうちわ問屋の多くが被災した。
震災後、竹の産地だった南房総にうちわ問屋が移住してうちわの生産を始めた。これをきっかけに南房総でうちわ作りが盛んになり、“房州うちわ”と呼ばれ、日本三大うちわの生産地のひとつとなった。

かつて堀江町にあったうちわ問屋・小山屋が印刷したうちわの制作過程を描いた摺り物がある。

制作工程や道具まで現在のうちわ作りとほとんど変わらない。
時を越え、場所が変わっても職人の技は継承されていることを教えてくれている。

現在も房州うちわを扱っている伊場仙。
「房州の竹を使ったうちわのしなりから来る風が扇風機とは違います。うちわを扇ぐ仕草が日本文化であって扇風機やエアコンでは味わえない良さがありますね。見た目に美しく、インテリアとしてもいいものです」と、うちわの魅力を語る。

台風被害乗り越え

千葉県を襲った台風15号から一年が経つ。その被害は房州うちわ作りにも及んだ。

うやま工房でも、例年よりうちわの生産が減少している。育ててきた竹を採取する前に台風が来たため、曲がってしまうなどの被害が出て、質のいい材料が採れなかったのだ。

台風によって、工房が被災して生産できなくなった人もいた。そして、今も工房の修復にあたっている人がいる。何十年も続けてきたうちわ作りを途絶えさせたくない思いからだ。

台風の被害、職人の高齢化、後継者不足と伝統の継承が厳しい状況になってきている中、房州うちわの魅力を伝えていこうと、今日も職人たちはうちわを作り続けている。

撮影後記

2019年の9月。
実家に向かう車窓から多くの家の屋根に、ブルーシートが見えた。転々と続く人工的な青が被害の大きさを物語っていた。

静かに鳴く蝉の声。
部屋に入ると鼻をつくカビの匂い。風に吹かれてブルーシートがめくれる音がする。そこに何があったのか思い出すことすらできない更地。

進んでいるようで進んでいない復興の歩み。

台風では、千葉県南房総市にある私の実家も被災した。

地面に散らばる瓦の破片を、ひとつまたひとつと拾い集め、フロントガラスが蜘蛛の巣みたいにひび割れた父の愛車の軽トラックの荷台に積み込んだ。瓦礫処理場の瓦の山に“さようなら”と投げ入れれば、瓦が“からん”と返事をする。

車窓から見える見慣れた街並みはどこか何かが欠けていた。

あと何往復すれば元に戻るのだろう。
あと何を捨てれば日常に戻るのだろう。

捨てても捨てても、元には戻らなくて、あの日から少し変わった日常を、新たな日常として受け入れることが始まりだった。

房州うちわを取材しようと思ったきっかけは、台風通過後の停電が続く中、暑さをしのぐためにうちわを使ったという話を聞いたからだ。

この話を聞いて、子供の頃、家にあった房州うちわを扇いだ時のことを思い出した。柔らかい風が心地よくて、綺麗に編まれた竹が美しかった。プラスチックのうちわとは一味違うと、子どもながらに思ったことを今でも覚えている。

エアコンや扇風機が当たり前のようにある豊かな暮らし。豊かさとは何なのだろうか。

宇山さんの言葉が忘れられない。
「機械は1~2mmも狂いの無いものを作れるかもしれない。けれど、手作りの良いところは同じものが出来ないところ。機械では出来ない良さがあるのよ。」

うちわを手に持ち、優しい風に心を和ませるそんな日があってもいいかもしれない。

そして、復興が少しずつでも進んで行くことを願う。

季節はもう秋になる。 

撮影・執筆   取材撮影部 永岡清香

撮影中継取材部
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