プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
長身から投げ下ろす直球・カーブと絶妙なコントロールを武器に、ホエールズ・ベイスターズで128勝133セーブをあげた齊藤明雄氏。最優秀救援投手2回に加え、リリーフピッチャーとしては異例の最優秀防御率にも輝いた。ヒゲがトレードマークの“ハマのレジェンド”に徳光和夫が切り込んだ。
徳光:
齊藤さん、いつ頃からヒゲ生やしたんですか。
齊藤:
プロ野球に入って4~5年目くらいのときに、アリゾナキャンプに行ったんですよ。そこで、僕と平松(政次)さん、野村(収)さん、遠藤(一彦)の4人で、「どれくらい伸びるかな」ってやったんですよ。僕だけが残ったっていう感じです。
徳光:
3人は離脱したわけですか。

齊藤:
ひげを剃ろうとして、まず顎ひげを剃ったんです。それで、剃りながら鏡を見てて、「ちょっと待て。口ひげがなくなったら間抜けな顔がよっぽど間抜けになるな」と思って、口ひげだけ残したんです。
徳光:
そうですか(笑)。
齊藤:
それがきっかけです。
ピッチャーは「やりたくもなかった」
徳光:
齊藤さんは大洋(現・DeNA)のイメージ、横浜のイメージが強いんですが、ご出身は京都なんですってね。
齊藤:
はい、伏見なんです。あの寺田屋の近くで、うちは魚屋さんをやってました。
徳光:
齊藤さんが小さい頃は、どういう野球をやってらしたんですか。
齊藤:
僕らが小さいときは、少年野球とかリトルリーグも少なかったので、ほとんど近所の先輩たち、年上の人と三角ベースでした。道でやってて、車が通ってる間はやめて、通らなくなるとやるっていう感じ。
徳光:
そういうところからの野球人生ですからねぇ。本格的に始めたのは、いつになるんですか。
齊藤:
本格的にユニホームを着てやったのは中学2年生から。1年生のとき最初の頃は、「体操着でいいよ」と言われてて、1年の秋くらいになってからユニホームを着たっていう感じでしたね。
徳光:
中学時代、野球部には入ってたわけですか。
齊藤:
入りました。
徳光:
野球部を選んだのはどうしてなんですか。
齊藤:
当時は長嶋(茂雄)さん、王(貞治)さんに憧れ、阪神でいえば村山(実)さんに憧れてて入りましたね。
徳光:
阪神ファンだったんですか。
齊藤:
はい、そうです。テレビがそういうのしかないです。京都ですから周りがもう阪神ファンなんです。
徳光:
京都も阪神ファンなんですね。始めたときはどのポジションだったんですか。
齊藤:
ショートですね。
徳光:
ピッチャーじゃないんですね。

齊藤:
全くピッチャーじゃないです。やりたくもなかったです。
徳光:
ええっ、それはどうしてなんですか。
齊藤:
ピッチャーはしんどいというイメージがものすごく強かったんです。
徳光:
じゃあ、ショートから投手になったんですか。
齊藤:
中学に入ってずっとショートやってて、3年の夏に外野手がいなくなっちゃって、外野手、センターです。
徳光:
まだ、ピッチャーに行かないんですか。
齊藤:
まだ全然やってないです。ピッチャーのピの字もやってないです。
甲子園はブルペンで投げただけ
齊藤氏は花園高校に進学。齊藤氏が3年生になる春の選抜で、花園は甲子園に初出場する。
徳光:
京都には京都商業(現・京都先端科学大学附属)とか平安(現・龍谷大平安)とか、いろいろ野球の強豪校がありますよね。
齊藤:
はい。でも、そういうところに行っても、レギュラーで出られないのが分かってましたから。
徳光:
目指そうとはしなかったんですか。
齊藤:
目指したんですけど、練習とか見に行くとすごい人ばっかりですよ、体も大きいし。こんなところに行っても、3年間補欠でスタンドで応援するか、途中で辞めるくらいかなと思って、ちょっと違う学校に行こうと思いました。
徳光:
花園高校って、ラグビーのイメージが強いんですけど、花園で野球なんですね。ラグビー部に入ろうとは思わなかったんですか
齊藤:
いや、痛いのは嫌です。
徳光:
(笑)。
齊藤:
あれだけ踏んだり蹴ったり…。(ラックから)ボールを手で出せないじゃないですか。倒れてるところから足で出すんでしょう。今のスパイクはちょっと柔らかくなったけど、昔は鉄でしょ。あれで踏まれるから、こんな痛いことはしたくないなというのはありました。
徳光:
でも、野球部だって厳しかったでしょう。

齊藤:
僕らの時代の高校野球っていうのは、1年生は本当のレギュラークラスじゃないとボールに触れない状況だったんです。アマガエルのようにフィールドの外にまわってファウルが飛んでいくのを取りに行く。アマガエル、声を出すだけという感じだったんです。
徳光:
なるほど、そういうのをアマガエルって言うんですか。

齊藤:
それをやってて、ボールに触りたいから、監督が「打撃投手で投げる者はいないか」って言ったときに、パッと手を挙げてしまったんですよね。ピッチャーなんてやったことがないんですけど、ボールに触りたかったから。それで、打撃投手をするようになって…。それがピッチャーのスタートかなと思いますね。
徳光:
なるほど。

齊藤:
高校2年の秋に、監督が、何を間違ったのか、「お前、ピッチャーやってみろ」って言ったんです。「ピッチャーなんかできるかな」と思いながら、人一倍、練習したかなとは思いますね。
徳光:
それで、3年生でエースになるわけですか。
齊藤:
3年春の選抜に行ったときは、まだセンターです。
左ピッチャーが背番号1を付けてたんですけど、選抜の前に、そのエースが「肩が痛い」と言い出した。1回戦はそのエースが投げて僕はセンター。もし、1回戦で勝って2回戦に行ったら、僕が先発だったんですけどね。
この大会で、花園高校は初戦で岩手の専大北上に1対0で敗れ、2回戦進出はならなかった。そのため、齊藤氏が甲子園のマウンドに上がることもなかった。
齊藤:
次は、日大三高との試合の予定でした。
徳光:
そうか、甲子園ではブルペンでしか投げてないんだ。
齊藤:
だから、甲子園の18.44メートル(ピッチャーマウンドからホームまでの距離)の感覚は全くないです。
徳光:
野球部としての思い出って、どういうものがございますか。誰かと投げ合ったとか…。

齊藤:
投げ合ったのは、徳光さんもご存じの巨人に入った中井康之。彼も京都なんですよ。四条中学から西京商業に入ってる。中学のときも府大会で負けてるんですけど、3年夏の京都大会も準々決勝で負けてるんですよ。
徳光:
中井さんに。
齊藤:
はい。投げ合って負けた。
この試合は延長16回まで及んだ熱戦で、花園は中井康之投手を擁する西京商業に6対4で敗れた。
徳光:
すごいな。延長16回ですか。
この頃はもう背番号1番だったんですか。
齊藤:
この夏の大会だけ1番だったですね。
徳光:
1番。欲しかったでしょう。
齊藤:
そりゃそうですね。同じマウンドに上がるんだったら、8番より1番がいい。エースナンバーを付けてるのがうれしくて、雨のときも隠れて校舎を走ったりしてましたね。
遊び呆けて強制入寮!?
徳光:
大学は大阪商業大にお進みになったんですけど、これは選択肢はいろいろあったんですか。

齊藤:
いっぱいあったんです。
夏の大会が終わって、同級生とプールに行ったりいろいろするじゃないですか。家に帰ったら革靴が4足あったんですよ。うちは魚屋じゃないですか。だから、座敷に上がる前には長靴かスリッパしかないんです。「何だよ。誰が来てんだよ」とか言って、ワーッて入っちゃって。そしたら大学の監督がいた。高校の先輩2人とマネージャーが来てた。「大阪商大の監督です。うちにぜひ来てほしいんですけど」って言われて、「あ、そうなんですか」っていうような感じだったですね。
徳光:
それじゃ、そのときはあんまり大商大に進んで野球をやろうとは思わなかったんですか。

齊藤:
東京に行きたかったっていうのはあったんですよね。
僕、おばあちゃん子だったんですけど、おばあさんに「絶対に家から出さない。東京なんかとんでもない!」って言われて。「そんなんしなくても野球はこっちでできる」。おばあさんは、野球なんかこっちでできるっていう感覚だったから。
だから、10日後くらいに監督がまた来たとき、「お世話になります」と言って、お世話になったんです。
徳光:
じゃあ、大学、野球部も家から通ってたんですか。
齊藤:
最初は通ってたんですよ。でも、18~19歳でしょ。春のシーズンが終わったときに遊び呆けてたんですよ。それから寮に入れられた。
徳光:
強制的に入寮させられたんですか。
齊藤:
そう。何してるか分かんないからっていうことで秋の大会前から寮に入りました。
徳光:
優秀で入寮したわけじゃないわけですか。
齊藤:
悪いほう。ほうっておいたら何をするか分かんないっていうことで。
徳光:
でも齊藤さん、やっぱり才能があったから1年生から投げてたんでしょう。
齊藤:
はい。1年から投げました。
でも、4年生は21~22歳じゃないですか。18歳から見たら、おじさんと一緒ですよね。
徳光:
1年生と4年生は全然違うんですか。

齊藤:
怖いです。1年生で関係ない。
学校でも寮でも一緒ですから、1年生のときは寝る時間なんかほんとに少ない。4人部屋ですからね。4年生、3年生、2年生、1年生って4人部屋。4年生が寝るまで寝られない。それで、マッサージをする。寝たかなと思ってやめたら、「いや、寝てねえぞ」って言われて、またやる。
徳光:
それでも辞めようと思わなかったんですか。
齊藤:
それは全くないですね。
徳光:
チームの中で、例えばピッチャーで一番になってやろうとかそういう気持ちは。
齊藤:
それはありました。同じチーム、同級生でも甲子園に出たメンバーが3人くらいいましたし、当然、下も入ってきます。「絶対負けない」っていう気持ちはありました。
東の江川・西の齊藤
徳光:
齊藤さんは、大商大時代はどういうピッチャーだったんですか。

齊藤:
大学2年生まではキャッチャーのサイン通りにしか投げない。真っ直ぐとカーブだけ。3年生くらいになって、やっと駆け引きをしながら投げられたかなっていう感じですね。

齊藤氏が3年生だった1975年、大商大は関西六大学・春季リーグで初優勝を達成した。当時、ライバルの同志社大学には、後に中日などで活躍した田尾安志氏が齊藤氏の1学年上にいた。
徳光:
田尾さんは対戦してどうでしたか。
齊藤:
田尾さんはいいバッターでしたよ。ピッチャーで4番。長打力はそんなになかったんですけど、ツーベースをうまく打てる人でしたね。速い球にものすごく強かった。

関西六大学を制した大商大は、全日本大学野球選手権に出場した。決勝まで進出したが、駒澤大学に延長14回の熱戦の末、1対0で敗れて準優勝に終わった。この大会で齊藤氏は35イニング無失点を記録した。
徳光:
すごい記録を持ってるんだ。そうか、大学選手権に出ていらっしゃるわけですね、決勝で駒大に敗れたんですか。駒大は当時、中畑清さんが…。
齊藤:
1つ上に中畑清さんがいて、二宮(至)や平田(薫)さんもいて、すごかったですよ。
徳光:
そうそうたるメンバーですね。
齊藤:
石毛(宏典)君もいたんですけど、ちょうどケガしてたのかな。

大商大は翌1976年も関西六大学春季リーグを制し、全日本大学野球選手権に出場。再び決勝まで駒を進めたものの、今度は東海大学に敗れ、またもや準優勝に終わった。
齊藤:
珍しく2年連続準優勝。決勝でまた負けたんですよ。東海大に2対1。そのとき、遠藤(一彦)は東海大のブルペンにいたらしいんです。
徳光:
そうか、後に一緒になる遠藤さんがいたんだ。
当時は、「東の江川(卓)、西の齊藤」って言われてましたよね。
齊藤:
3年生のときに大学選手権に出てから、来年の目玉で、「東の江川、西の齊藤」って言われましたね。
徳光:
同じタイプのピッチャーだったんですか。
齊藤:
いや、江川と僕はレベルが全然違うでしょう。

徳光:
ご覧になってそう思いましたか。
齊藤:
江川は速いと思いました。今でいうスピン量ですかね。あれだけ高めにピュンッと投げるやつは少ないんじゃないですか。
江川氏は齊藤氏の1学年下になる。当時、齊藤氏と同学年では、日本大学から阪急に進んだ佐藤義則氏、駒澤大学から住友金属を経て西武に進んだ森繁和氏がいた。
齊藤:
よく“大学の三羽ガラス”って言われてましたね。
徳光:
そうか、駒大の森さんと日大の佐藤さんと大商大の齊藤さんが“大学三羽ガラス”なんだ。3人ともそのままVシネマに出られそうな…。
齊藤:
完璧ですね。
徳光:
(笑)。

齊藤:
昔よく3人で飲んでたんです。誰も寄って来ないですよ(笑)。
【中編に続く】
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/4/22より)
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