米紙「改革者が来る」
小沢一郎氏と初めて会ったのは、湾岸戦争が終わった平成3年(1991年)の春、場所は僕の赴任先のワシントンだった。
当時海部政権の自民党幹事長だった小沢さんは、PKO協力法案を、慎重派の海部首相を押し切って提出させるなど、一番の実力者として権勢を振るっていた。米国の新聞は「改革者が来る」と小沢訪米を報じていた。
フジテレビの支局のスタジオから、ニュースに生出演してもらうことになり、リムジンでホテルに迎えに行った。乗り込むなり、同行の番記者、吉川君にいきなり、「ふざけた番組じゃねえんだろうな」とすごんだのにはビックリした。
吉川君が僕を紹介すると、「田舎はどこだい?」と聞くので、「山口県防府市」と答えると、「高村(正彦)さんの所(周南市)の隣だな」と言う。当時、小沢さんは全国の選挙区の区割りがすべて頭に入っていて、官僚や記者に会うと、田舎がどこか聞いて立候補を勧める、という噂があった。
もしや、と思ったのだが、会話はそれで終わった。
クリントン大統領に怒鳴ってみた
海部政権は高支持率だったのだが、その年の11月、首相が宮沢さんに代わってから自民党政権はおかしくなった。
翌92年、米国では大統領選でクリントンがブッシュを破り、12年ぶりに民主党政権に交代する。日本の政権が弱くなるとともに、米国からの市場開放圧力も強くなった。
翌93年2月、渡辺美智雄外相が訪米し、クリントンと会談した時のことだ。ホワイトハウスでの冒頭取材で、一瞬クリントンと僕の目が合った。「今だ」と思い、クリントンに、「日本に市場開放の圧力をかけますか?」と怒鳴ってみた。
日本ではこういう時に幹事社があらかじめ決められた質問をするのだが、米国では自由競争で、何を聞いてもいい。時には同時に何人もの記者が質問する(怒鳴る)。クリントンは僕の方を見て、「もちろん。それが僕の仕事だから」と答え、なぜかミッチー含め、その場にいる人は皆で大笑いした。
30分くらいして東京のデスクから電話があり、「時事通信が、速報打ってるぞ!クリントンが会談で日本に新たな市場開放を要求だって」と言う。まだ会談後の両政府の説明はないのにおかしいな、と思った後、気づいた。ああ、僕のあの質問か。自分の質問でニュース速報が打たれる、というのは不思議な気持ちだった。
寿司屋での貿易交渉
7月に、クリントンの東京サミット出席に同行した時には、宮沢内閣への不信任案は、すでに可決されていた。
クリントンは、レームダック(死に体)の宮沢さんには冷淡だった。米国人の記者も、会談場所のホテルの池にいた鴨を見て「あっレームダックがいる!」と大声で叫ぶ奴もいるなど、バカにしていた。クリントンは、すでに自民党を離党し、新生党を立ち上げていた小沢さんと会談し、記者の関心ももっぱらそっちだった。ニュースの中継でそんなことをしゃべったのを覚えている。
この時クリントンは、宮沢さんと貿易交渉の協議をしたのだが、なぜかその会談をお寿司屋さんでやった。交渉は難航していたので、冒頭取材の時に米国の記者が「デザートが出る頃には結論が出るか」と聞くと、宮沢さんが「寿司屋にデザートはないよ」と答えたのはおもしろかった。宮沢さんもヤケクソになっていたのかもしれない。中継でこの話をしたら、スタジオの安藤優子さんが大笑いした。
その翌月、自民党は総選挙で過半数を割りこみ、細川政権が発足した。55年体制は崩壊したのだ。
細川政権誕生でもリーダーは小沢氏
この直前に小沢さんが出した、著書『日本改造計画』はベストセラーになり、僕もニューヨークの紀伊国屋で買って読んだ。冒頭に有名なグランドキャニオンの話が出てくる。落ちたら危ないのに柵がない、という話だ。危険は自己責任で管理しろという話で、これは米国人は喜ぶだろうな、と思った。
やはり米国でも関心が高く、すぐに英訳され、その後ペーパーバックも出た。海部、宮沢政権に続き、この細川政権でも日本の本当のリーダーは小沢さんであることは皆が知っていた。「改革者」である小沢さんに日本だけでなく、米国のメディアも、夢中になっているようだった。
この頃が小沢さんの絶頂期であった。
しかし熱狂のなかで誕生した細川政権は、わずか9か月で瓦解した。後継の羽田政権は社会党が離脱したため、少数与党となり、これも2ヶ月で崩壊。自民党は1年で政権を取り戻した。
しかしあの1年間の嵐のような熱狂は何だったのだろう。遠い米国から見ていても、熱風が吹き付けられるようだった。
しかし小沢さんの改革の中身は、あいまいなものだった。
そもそも自民と共産以外の8党連立で、右は自民党田中派出身の新生党から左は社会党まで、という混成チームだ。
政治部の記者に聞くと、毎日深夜まで8党で協議するのだが、なかなか結論が出なくて大変だ、ということだった。しかも、後で担当してよくわかったのだが、この小沢一郎という政治家は飛び抜けて優秀なのだが、変わり者で、コミュニケーション能力がないわけではないのに、ある時、突然殻に閉じこもってしまう。
例えばPKOのような外交安保政策については、トップダウンの力がよく効く。小沢さんは、こういうのは得意で、水を得た魚のように活躍した。しかし、例えば国民福祉税のように、細かい根回し、あるいはボトムアップが必要な経済政策では、見事に失敗した。その脆さは同じ人とは思えなかった。
政権交代の失敗は、小沢さんに対する、世間の過剰な期待のせいだったのかもしれない。
『改革騒ぎ』の終焉
しかし歴史は繰り返す。
その15年後、小沢さんは再び「改革」を掲げて民主党による政権樹立に成功した。この時も連立内、そして党内での意見の相違を乗り越えられず、政権は3年5か月しか続かず、また自民党政権に戻った。
この時に、ある自民党の政治家が、「20年続いた小沢さんの『改革』騒ぎがこれでようやく終わった」と言った。「みんな改革という言葉に弱いんだ」とも。
でも本当に終わったのだろうか。
小沢さんはもう終わったかもしれない。
しかし自民党には、また来るかもしれない「改革」または「改革騒ぎ」を吹き飛ばすだけの強い自力は本当にあるのだろうか。
【関連記事:「平成プロファイル~忘れられない取材~」すべての記事を読む】