5月の第2日曜日は母の日。2025年も日頃の感謝をカーネーションの花に込めてお母さんにプレゼントした人も多いのでは? しかし花屋さんのない鹿児島県の離島では花を用意するのも大変だ。そんな離島の子供たちに40年以上にわたり贈り続けてきた鹿児島市の男性がいる。
1981年から贈り続けたカーネーション
鹿児島市で生花店を営む田知行義久さん(77)。
花屋さんのない鹿児島県の離島、三島村・十島村の子供たちに、実に40年以上にわたり母の日のカーネーションを贈り続けてきた。2025年は211本のカーネーションが島の子どもたちに贈られた。

田知行さんがカーネーションを贈り始めたのは1981年。「三島村・十島村にはお花屋さんがなくて、母の日にカーネーションを贈れない」という話を聞いたのがきっかけだった。
鹿児島テレビでは2006年、三島村の竹島で、カーネーションをもらって笑顔を見せる子供たちを取材した。田知行さんから届く、年に一度のカーネーションを子どもたちは心待ちにしていて、感謝の気持ちとともに、お母さんにカーネーションをプレゼントしていた。



ひとつひとつ丁寧に 家族で作業
2025年で45年目となるこの活動、準備は家族の手を借りながら、一日がかりだ。
朝、仕入れたばかりのカーネーション。長さを揃えてラッピングし、一つ一つ丁寧に仕上げていく田知行さんは「リボンまでできたらもらう方も喜ぶから」と話す。
2025年に準備したカーネーションは三島村・十島村合わせて211本。中には3世代にわたって、田知行さんからのカーネーションを受け取った家族もいるそうだ。

田知行さんは作業の手を休めることなく「もらってくれて喜んでもらえればありがたい。渡しながら『お母さんありがとう』の言葉を子どもたちが発してくれればそれでいい」と話す。横で作業していた次男の義仁さんも「今年で45歳になるが、僕が生まれた時からやっているとは知らなかった。『花屋のない島の子たちにお母さんに感謝する日を作りたい』と照れくさそうに言う父が誇らしかった」と話してくれた。
長く続いた原動力は「手紙」 親子仲直りのきっかけにも
40年以上続けてきた原動力。
それは島の子どもたちからの感謝の手紙だ。
手紙について田知行さんは「お母さんとけんかしていたが、花のおかげで『お母さんありがとう』と伝えられ、お母さんと仲良くなれて、田知行さんのおかげと手紙をもらい、うれしかった」と、話す。


三島村・十島村の子どもたちの母の日のお手伝いをしてきた田知行さん。
しかし、77歳になる2025年を最後に、カーネーションを贈る活動に終止符を打つことにした。「いつかどこかで、何かの区切りをつけなきゃいけないかなと」感じていた田知行さん。「亡くなったおふくろも『よく続けたね、よく続いたね』と言ってくれていた」と、手応えを感じているようだった。
島の子どもたちに夢をありがとう
2025年5月9日夕方。
鹿児島市と十島村の島々を結ぶ「フェリーとしま」の待合所でカーネーションの贈呈式が行われた。
朝から準備したカーネーションを手渡した田知行さん。長年の活動に、十島村の久保源一郎村
長は「3世代続くような形で島の子どもたちに夢を与えてくれた」と感謝の言葉を贈った。
フェリーとしまで運ばれたカーネーションは無事に島の子どもたちのもとへ。


「お母さん ありがとう」
2025年も島のあちこちで子どもたちが感謝の気持ちを伝える場面に花を添えていた。


田知行さんは「最後という言葉は好きじゃないが、できることなら何らかの形で続けられる事業があったらと願望がある」と、今後について語った。田知行さんからのカーネーションプレゼントはひとまず区切りとなるが、島の子供たちに根付いた「感謝」の思いはこれからも消えることはないだろう。
(鹿児島テレビ)