プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
巨人、中日、オリックスと渡り歩き、切れ味鋭いシュートを武器に、ドラフト外入団最多の165勝をあげた西本聖氏。巨人時代はライバル・江川卓氏とともにダブルエースとして活躍。中日移籍1年目には20勝で最多勝を受賞。沢村賞1回。首脳陣との不和によるトレード、椎間板ヘルニアの手術など様々な難局を乗り越えた“不屈の男”に徳光和夫が切り込んだ。
【中編からの続き】
妻の大やけどをバネに沢村賞

1981年3月、藤田元司新監督のもと、アメリカ・ベロビーチでのキャンプに臨んでいた西本氏を悲劇が襲う。西本氏が留守にしていた自宅でガス爆発事故が発生し、妻・由里子夫人が全身の65%をやけどする重傷を負ったのだ。
徳光:
結婚してすぐでしたよね、たしか。
西本:
そうです、結婚1年目です。帰国する飛行機に乗りながら、女房のご両親に申し訳ないなと。自分と結婚したから、こういうことになったんじゃないかと。
徳光:
そうですか。
西本:
でも、女房が頑張ってくれてね。
徳光:
当時、僕も取材もさせていただいたんですけど、生命の限界を超えてるって言われてましたよね。
西本:
亡くなってもおかしくない状況でしたね。運が強かったっていうか。あとは、本能的に両手で顔を押さえたから、それで顔が大丈夫でしたのでね。
徳光:
奥さまのやけどは一つのバネになりましたか。

西本:
はい、なりましたね。「ああいうことがあったから、西本はダメだった」と言われたくない。そう言われると一番気を落とすのは女房だから、頑張んなきゃいけないと思いましたね。
西本氏はこの年、初めて開幕投手を務めた中日との開幕戦で完投勝利を飾ると、その後も勝ち星を積み重ね、18勝12敗、防御率2.58の好成績でリーグ優勝に貢献した。
徳光:
この年に沢村賞も取ったんでしたっけ。
西本:
はい、そうですね。
徳光:
これは、うれしかったでしょう。
西本:
うれしかったですね。
徳光:
このときの沢村賞は価値があると思いましたね。奥さまのケガをバネにされて。沢村賞は投手にとってはやっぱり…。
西本:
最高ですよね。ナンバーワンピッチャーですから。うれしかったんですけど、世間からは「何で西本なんだ。20勝した江川じゃないのか」って。結構マスコミもたたかれましたね。

この年の江川氏の成績は20勝6敗、221奪三振、防御率2.29。成績では西本氏を上回っていて、最多勝、最多奪三振、最優秀防御率のタイトルも獲得していた。当時の沢村賞は記者投票によって選出されていたため、「空白の1日」騒動を経て入団した江川氏より、西本氏に票が集まったと言われている。
徳光:
江川さん的にはどうだったんですかね。「俺が沢村賞」みたいな感じはあったんですかね。
西本:
あったと思いますね。記者会見する用意もしていましたから。記者が「西本になりました」って感想を求めたら、「本人に聞いてくれ!」と、結構怒ってたみたいです。それは怒りますよね。
徳光:
でも、本人からは「おめでとう」という話はあったんでしょう。
西本:
その後にありましたね。
日本シリーズで大活躍

この1981年の日本シリーズで巨人は日本ハムと対戦。西本氏は第2戦完投勝利、第5戦完封勝利の活躍で、ジャイアンツ日本一の立役者となりMVPを受賞した。
西本:
ほんとは1戦目に投げたかったんですけどね。江川さんが投げて負けた。負けたときは喜んでね。
徳光:
(笑)。
西本:
自分の価値を作るには、明日勝たなきゃいけない。それで勝ったんですよ。
江川さんは意外とここ一番の大事な試合、開幕だったり日本シリーズだったりはダメなんですよね。
徳光:
なるほど。
江川さんの西本さんに対する目はひょうひょうとしていて、「西本はどうだこうだ」っていう感じがないような素振りをしてたんですけど、実はあったんじゃないかと思うんですよね。特にこの日本シリーズあたりからは。
西本:
そうでしょうね。やっぱりあったと思いますね。聞いたことはないですけどね。

2年後の1983年も巨人は日本シリーズに進出し西武と対戦。西本氏は第2戦で完封勝利をあげると、第5戦でも完投勝利。この試合で3回まで無失点だった西本氏は、日本シリーズ29イニング連続無失点という快挙を成し遂げた。
徳光:
これは未だに破られてない記録ですよね。
西本:
僕の一番誇れる記録はこれですね。まず日本シリーズに出ないといけないですし。
この1983年の日本シリーズ、巨人が日本一に王手をかけて臨んだ第6戦で、巨人が3対2とリードして迎えた9回裏のマウンドを託されたのは、第7戦の先発が予定されていた西本氏だった。
徳光:
第6戦の9回、リードした場面で西本さんが登板したわけですけど、あれは予定にはなかった。
西本:
ないです。次の日に先発ですから。一応ベンチには入ってたんですよね。
(9回表に)中畑さんが右中間にスリーベースを打って逆転したじゃないですか。ピッチングコーチの(中村)稔さんと目が合ったら、「お前、何してるんだ!」って。「何してる」って言われたって、自分は明日先発だからね。「早くスパイクに履き替えてブルペンに行け!」って言われて、慌ててブルペンに行ったら、そこでもう交代なんです。
江川さんはブルペンで準備してたんですよ。江川さんは自分が行くと思ってたし、僕もそう思ってた。結局自分が行ってダメだったんですよね。

9回裏、西本氏は1アウト満塁のピンチを背負うと、石毛宏典氏にショートへのタイムリー内野安打を打たれ3対3の同点に追いつかれる。延長に入った10回裏に江川氏がマウンドにあがったが、2アウト二塁一塁から金森栄治氏にタイムリーを打たれサヨナラ負けを喫した。
西本:
あそこで藤田監督が僕じゃなくて準備してた江川さんを行かしてれば、勝ったかもわかんないですよ。
徳光:
藤田さんとしては、どっちかを選択した際に、「ここは西本だ」と思ったわけでしょう。
西本:
そうですね、良かったからですね。
徳光:
じゃあ、これはちょっと悔しい試合として印象に残ってますか。
西本:
そうですね。はい。
西本氏は続く第7戦に先発したが、2対0とリードして迎えた7回裏に力尽き、無死満塁からテリー氏に左中間を破る走者一掃の3点タイムリー二塁打を打たれて逆転を許す。試合はそのまま3対2で西武が勝ち、日本一の栄冠を手にした。巨人はあと一歩のところで日本一に届かなかった。
江川氏引退「なんで勝手に辞めるんだ」
徳光:
ライバルの江川さんが、1987年に13勝を挙げながら突然引退。これは西本さんにしてみれば喪失感みたいなものが大きかったですかね。
西本:
そうですね。怒りましたね。
徳光:
えっ、怒ったんですか。

西本:
なんで勝手に辞めるんだ。俺の目標がなくなるじゃないか。
やっぱり抜きたいっていうのがありましたからね。勝ち星で抜きたい。辞められたら抜けないじゃないですか。自分の中では「なんで勝手に辞めるんだ」と。そこで切り替えたのは、「じゃあ、通算勝ち星で抜こう」と。
徳光:
なるほど。

西本:
通算勝ち星(西本165勝・江川135勝)では抜きましたので、文句は言わせない(笑)。
徳光:
勝手なことを言って申し訳ないですけど、やっぱり江川さんがいたからこそ、西本さんのこの星数というふうに評価してよろしいですかね。
西本:
その通りですね。
徳光:
江川さんが辞めた翌年は4勝ですよね。
西本:
はい。4勝です。気持ちの上でなんか切れたんじゃないですかね。
死球で骨折“鉄人”衣笠氏の熱い言葉
徳光:
衣笠さんにはよく打たれましたよね。
西本:
打たれてます。あのデッドボール以来、投げられないというかね。申し訳ないっていう気持ちがありましたから。デッドボールを当てた日の夜、「すみませんでした」って電話したんですよ。そしたら「勝てるゲームを勝てなくて損したな」って。それを聞いたときに、もう衣笠さんにはインコースは投げられないと。それから打たれ出しましたね。
徳光:
そうですか。

1979年8月1日に西本氏が当てたデッドボールで左肩甲骨を骨折し、1122まで伸ばしていた連続試合出場の継続が危ぶまれた衣笠氏だったが、翌日の試合も代打で出場した。

西本:
江川さんが投げて三球三振だったんですよ。3回とも全力で振ってね。そのときに言ったのは、「3本のスイングのうち、1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は西本のため」って。
徳光:
泣かせる文句ですね。
西本:
素晴らしい方でしたね。これを言われたら、インコースに厳しい球はもう投げられないですよね。それで、甘くいって打たれますよね。普通打たれると悔しいんですけど、衣笠さんだけはそういう気持ちにならなかったですね。
徳光:
ということは、あんまりシュートは投げなかった。
西本:
投げなかったですね。

西本氏の衣笠氏との通算対戦成績は184打数69安打で打率3割7分5厘、ホームランは19本だ。
西本:
ちょっと打たれ過ぎですけどね。まあ、いいです、衣笠さんですから。
「巨人を見返してやる」移籍1年目に20勝

1988年のオフ、西本氏は加茂川重治氏とともに、中尾孝義氏との2対1のトレードで中日に移籍。移籍1年目の西本氏は20勝6敗、防御率2.44とキャリアハイの成績で最多勝を獲得した。
徳光:
あのときは、巨人に新しく入ってきたコーチとの確執もあったんじゃないかと言われてますが。
西本:
そうですね。まあ、いろいろありましたね。新聞にもいろいろ書かれましたしね。
徳光:
でも、星野(仙一)さんは大変欲しかったみたいですね。
西本:
そうですね。だから、僕も中日に行ったときに、「星野は見る目なかった。西本を取って損した」とだけは、絶対にファンに言わせちゃいけない。そういう思いと、「巨人軍に捨てられた、見返してやろう」という、この2つの気持ちが一つになって、20も勝てたんじゃないですかね。
徳光:
そうですか。必ず何か追いかけてますね。
西本:
そうなんですよ。もっと楽に人生を送りたいんですけどね(笑)。
徳光:
それで答えを出すのがすごいよね。星野さんの期待に応えるっていう思いがあったんですね。
西本:
星野さんも調整方法とか全て任せてくれましたからね。コーチはいますけど、「お前の好きなようにせい」と。そう言われるとやっぱり手を抜けないですよね。
徳光:
なるほど。翌90年も11勝と2桁勝利をあげるんですけど、ここでタフな西本さんが初めてケガをする。
西本:
椎間板ヘルニア。
徳光:
91年は2勝、これはどうでしたか。

西本:
体には自信あったほうですから、すごくショックでしたね。アメリカへ行って手術したんですけどね。一つ間違えれば車椅子って言われましたけど、うまく成功したんです。
徳光:
でも92年も1勝しかできなかった。
西本:
そうなんです。1勝11敗。
徳光:
「これでもう野球人生は終わり」みたいな感じにはならなかったんですか。
西本:
「まだやらなきゃな」っていう感じでした。
徳光:
その原動力は何なんですかね。
西本:
やっぱり野球が好きだったんですね。これで終わると悔いを残すなという…。
最後は長嶋さんで終わりたい

1992年オフ、中日から戦力外通告を受けた西本氏は、巨人時代の先輩である土井正三氏が監督をしていたオリックスへ移籍。93年に5勝をあげたものの、わずか1シーズンで再び自由契約になる。
徳光:
オリックスでもまた自由契約。
西本:
そうですね。それは仕方ない。この世界ですからね。でも、やっぱりまだ野球がやりたい。どこかそういう話があればなと。
徳光:
そしたら、巨人から話があった。

西本:
いや、僕から長嶋さんに電話したんですよ。
長嶋さんに、「もう一度野球がやりたい。だからお願いしたいんだ」と言ったら、長嶋さんは「西本、お前もプライドがあるだろう。プライドを捨ててくるなら考えよう」と言ってくれたんで、宮崎で背番号なしのユニホームでテストを受けたわけですよ。
徳光:
長嶋さんとそういう会話があったんですね。
西本:
そう。長嶋さんで始まって長嶋さんで終わりたかった。
徳光:
それで、どうでしたか。
西本:
結局、投げることはなかったんですけどね。
徳光:
あの「10.8決戦」の年ですからね。
西本:
そうですね。あの年、ある程度余裕を持って優勝できたなら、僕は投げてたんですよ。監督からそういう話がありましたからね。「お前のことだから、そこを我慢して調整しといてくれよ」と。
結局、投げられませんでしたけど、それまで20年という現役生活を送れたのは、ドラフト外で入った男からしてみると、幸せだったというところにつきますね。
有志による引退試合でミスターが打席に

西本氏は1994年のシーズンで現役を引退。シーズン中に引退試合をできなかった西本氏のために、チームメイトや馴染みの記者が企画して、95年1月21日に多摩川グラウンドで西本氏の引退試合が行われた。
徳光:
試合を観に来た長嶋さんがバッターボックスに立って。
西本:
そうなんです。あれはうれしかったですね。
徳光:
見に行ってる我々も、あのときは、何か絆を感じました。
西本:
そうなんですよ。まさか打席に立つとは思ってなかったですからね。長嶋さんが私服でグラウンドに立つことなんてないわけですよ。
長嶋さんはサードゴロを打ったんです。サードを守ってたのは桑田(真澄)なんですけど、桑田も演出してね。ファーストに悪送球して、長嶋さんがセカンドまで行った。
徳光:
僕は見てて本当に涙が出ました。今思っても胸が熱くなります。
西本:
やっぱり何でもそうですけど、終わり良ければすべて良し。多摩川で始まり多摩川で終わり、長嶋監督で始まり長嶋監督で終われるという、こんな幸せな人生はないですね。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/4/1より)
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