プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
巨人、中日、オリックスと渡り歩き、切れ味鋭いシュートを武器に、ドラフト外入団最多の165勝をあげた西本聖氏。巨人時代はライバル・江川卓氏とともにダブルエースとして活躍。中日移籍1年目には20勝で最多勝を受賞。沢村賞1回。首脳陣との不和によるトレード、椎間板ヘルニアの手術など様々な難局を乗り越えた“不屈の男”に徳光和夫が切り込んだ。
ダイナミックな投球フォーム
西本氏は現役時代、左足を高々と上げるダイナミックな投球フォームで人気を博した。その写真を西本氏に改めて見てもらうと…。
西本:
なかなか恰好いいですね、自分で言うのもあれですけど。
徳光:
これ、すごいですね。Yの字じゃなくて“I字”開脚ですね。こうやって投げてましたかね。
西本:
投げてましたね。
徳光:
こんなに足を真っすぐ上げて…。
西本:
はい、上げてましたね。
徳光:
体が柔らかかったんですか。

西本:
いや、硬いんです。あぐらかけないんですよ。あぐらをかくと、後ろに倒れちゃうくらいです。
徳光:
その人がこのフォームですか。
西本:
はい。だから、フォーム的には見た目は柔らかく見えるんですけど、全然ダメでした。
徳光:
そうなんですか。そういうことってあるんですね。
西本:
ありますね。
徳光:
ドラフト外、今なら育成選手で有名になる人はいらっしゃいますけど、ドラフト外でこれだけの実績を残された方はそんなにいないですよ。西本さんは確か165勝。
西本:
もう出来過ぎですよ。
徳光:
素晴らしい。じゃあ、一体なぜ165勝したのかってことをたどっていきたいと思います。
“西本兄弟”兄2人が甲子園で優勝と準優勝
徳光:
西本さんは愛媛県の興居島(ごごしま)の出身。

西本:
自分の両親は漁師をやってました。小学校が2つあって、中学校は1つなんですよ。ちっちゃな島ですよね。
徳光:
そこで、あの有名な西本5兄弟が生まれたわけで。
西本:
いや、7人きょうだいです。男5人、女2人なんです。
徳光:
ああ、そうか。確か一番下でしたよね。
西本:
僕が一番末っ子です。
徳光:
そうですよね。一番上のお兄さんも野球選手。
西本:
そうですね。長男も松山商業で野球をやってまして、肩を痛めてダメだったんですけど、一番良かったと言われてますね。次男が相撲取りで、三男は甲子園で準優勝して広島カープにドラフト1位、四男は甲子園に行って、松山商対三沢、あの延長18回引き分け再試合のときにファーストを守ってたんですよ。

松山商業と青森・三沢高校が対戦した1969年の夏の甲子園決勝は、三沢・太田幸司投手と松山商・井上明投手が一歩も譲らない投手戦を演じ延長18回0対0で引き分けとなり、翌日の再試合で4対2で松山商が勝ち深紅の優勝旗を手にした。高校野球の歴史に残る名勝負だ。
徳光:
四男の方は、あの試合に出てたんですね。そうですか。西本さんは、その下でいらっしゃるんだ。
西本:
そうです。それで、僕は甲子園に行ってない。
徳光:
行ってないわけですか。
西本:
応援には行ったんですけど(笑)。
徳光:
そうですか。その人がプロへ行って大成功ですもんね。
松山商野球部…厳しくて2度脱走
徳光:
西本さんは中学校時代からもう頭角を現してたんですか。
西本:
そうですね。1年からピッチャーをやってまして、一応エースでした。
徳光:
高校は松山商業ですけど、広島商業とか、そういう話もあったんじゃないですか。
西本:
あったんです。ちょうど兄が広島に行ってましたから、兄は自分の近くに置いて見たかったんです。ところが、兄貴2人は松商に行ってるから、僕が広島に行ったら、後援会の人たちに親父の顔が立たないっていうんで、兄貴と親父が相談して、「それなら松山商業へ行かすか」と。
徳光:
でも、今振り返ると、やっぱり松山商業に行って良かったかなってところはありますか。
西本:
そうですね。今、振り返って見ると良かったです。でも、現実は大変でしたよ。
徳光:
それほど厳しかったわけですか。

西本:
厳しかったですね。正座は1時間が当たり前なんですよ。返事は「はい」と「いいえ」しか言えない。結構いろんな規則があったんですよね。2回脱走しました。高松まで友達5~6人とね(笑)。
徳光:
当時は松山商業のエースでしょ。
西本:
そうです。1年でもうエースを張ってましたから。
徳光:
1年でエースになったんですか。じゃ、四国では注目されてた。
西本:
その通りですね。やっぱり兄2人が松山商でしたから。その中で「弟が一番良い」という感じで言われてましたし。
徳光:
でも、甲子園は行きたかったでしょう。
西本:
行きたかったですね。兄2人が行って優勝と準優勝ですから。
徳光:
ですよね。
西本:
1年のときが一番チャンスだったんですよ。当時は北四国大会だったんです。
北四国大会とは香川県代表と愛媛県代表が戦い、勝者が夏の甲子園の出場権を獲得する試合で、1975年まで行われていた。西本氏が1年生だった1972年、松山商業は愛媛県を制して北四国大会に進出するが、香川代表の高松商業に4対0で敗れ、甲子園出場はならなかった。
西本:
北四国大会で高松まで行ったんです。高松では香川のチームに有利な判定、ボールがストライクになったり、アウトがセーフになったりね。で、松山に来ると、逆なんですよね。そういうのもあって、結局負けてしまって。
徳光:
当時はそういうグレーゾーンみたいなジャッジがあったわけですか。
西本:
その通りですね。
のちの“最強ライバル”作新学院・江川卓氏を目撃

西本氏は高校2年のときに、江川卓氏がいた作新学院と練習試合をしたという。高校時代の江川氏は公式戦で9度のノーヒットノーラン、2度の完全試合を達成するなど規格外の活躍で「怪物」と呼ばれていた。
徳光:
そのときは江川さんと投げ合ったんですか。
西本:
はい。投げ合ってます。
徳光:
江川さんの印象はいかがでした。

西本:
すごかったです。よく、「ボールが浮いてる、ホップする」って言うじゃないですか。そんなの聞いたことはあっても見たことないじゃない。でも、打席に立ったとき、本当にボールが浮いてきましたからね。「いや、これはすごいな」と思いましたね。
徳光:
松山商業は16三振も食らったらしいですね。
西本:
はい、そうです。飛ばないですもん。飛ばないどころかバットに当たらないですからね。
徳光:
江川さんとニシやん(西本氏)は1個違いですかね。
西本:
はい。江川さんが1個上です。
徳光:
ということは、西本さんが2年生で江川さんが3年生。江川さんの球が一番速いときですね。
西本:
その通りです。
徳光:
野球人生の中で、その人が後々のライバルになるとは思わなかったでしょう。
西本:
そのときは、全然思わなかったですね。
リアル「巨人の星」鉛入りシューズで松山城へ
西本氏が3年だった1974年、松山商業は夏の愛媛大会準々決勝で帝京第五に敗れ、結局、西本氏は甲子園に出場することはできなかった。
徳光:
甲子園には一度も行けなかったですけど、西本さんは高校時代に相当練習したらしいですね。
西本:
そうですね。練習はやりましたね。特に3年夏の大会の後、現役が終わってからやりましたね。
徳光:
そうなんですか。

西本:
当時、鉛の入った重たいシューズを履いてたんですよ。授業が終わると、それで松山城まで上って、帰りの電車も全部つま先立ち。その後、友達を背中に背負って砂浜を走って。家に帰って部屋に着くと、今度はお袋をつかまえて仰向けになって、両手でお袋の両足を持って自分の足を上げる。お袋の好きな方に払ってもらって、また足を上げる。
徳光:
腹筋。
西本:
それで、今度は指立て伏せをやったりね。そのおかげで肘が結構強くなって、シュートを放り出したんですよ。
徳光:
そうですか。それはプロを目指してですか。
西本:
プロか大学っていうことで。
徳光:
すると、大学という選択肢もあったんですか。

西本:
松商の監督だった一色(俊作)さんって方が、明治の島岡(吉郎)監督と懇意で、一色さんは僕を「明治に行かす」って決めてたらしいんですよ。ところが、ジャイアンツから連絡があったので、そっちに行っちゃったんですよね。だから、島岡さんは怒ったらしいですよ。
徳光:
尋常な怒り方じゃなかったでしょうね(笑)。
約束破られドラフト外で巨人入団
徳光:
ドラフト会議では指名されなかったですよね。
西本:
そう。ジャイアンツは指名すると言ってたんですよ。
徳光:
あのチームは、そういうことをよく言いますからね(笑)。

西本:
だまされました。「大人は汚いな、信用しちゃいけない」と思いましたね。
徳光:
そうですか(笑)。
西本:
それで、僕は最初「もう行かない」って言ったんですよ。そしたら、広島に行った兄に、「もし断ったらもうないぞ。向こうが欲しいっていうんだから、今なら絶対にジャイアンツに行ける。どうするんだ?」って言われて、「それはそうだな」と思って、それで入ったんですよ。
西本氏が巨人に入団した1975年は、現役を引退した長嶋茂雄氏が監督に就任した年だった。
西本:
僕、学校の授業をさぼって、長嶋さん引退試合をデパートのテレビで見てたんですよ。会ったことはないんだけど、涙が出てきてね。その巨人に行ったわけですよね。だから、すごい憧れがあって。
徳光:
ミスターとの最初の会話は覚えてますか。

西本:
最初の会話ですか。入団のときは、あいさつだけしかないですね。キャンプに入っても、「おはようございます」って言ったら、「おぅ、おはよ」って言ってね。それくらいですね。
ライバルは“甲子園のスター”定岡正二氏

西本氏と同期入団のドラフト1位は定岡正二氏。鹿児島実業で3年夏の甲子園でベスト4。甘いルックスでアイドル的人気を博した。
西本:
サダは甲子園のスターだったから、やっぱり力の差がある。最初はそういう目で見てましたね。
徳光:
同期で入団したにもかかわらず。同じユニホームであるにもかかわらず。
西本:
全然違うなって(笑)。
徳光:
そういうとき、西本さんなりに「何くそ、こいつに負けるか」みたいなものってのはあったんですかね。
西本:
最初はなかったですね。自分も甲子園まで見に行ってましたから。憧れですよね。
徳光:
でも、1年目のシーズンが終わるところあたりで、だんだんメラメラと…。
西本:
そうですね、ライバルって感じでね。やっぱり定岡を抜かないと上に行けない。マラソンでも勝たないといけない。
徳光:
なるほど。
西本:
だから、いつも1位か2位でしたね。
磨き上げた“魂の決め球”シュート
徳光:
当時、杉下(茂)コーチに言われたことは何かありますか。

西本:
「何か球種を一つ覚えないといかんな」っていう感じです。周りはみんな素晴らしいボールを投げてますからね。
徳光:
杉下さんに言われてシュートを覚えたんですか。
西本:
そうですね。それまでも投げてたんですけど、より一層、ウイニングショットを磨かないと。人が投げてないボールを投げることが一番大事だなということでね。
徳光:
いくつかの球種がある中で、シュートに磨きをかけようと思ったのはなぜなんですか。
西本:
真っすぐもそんな速くない、変化球もそんなに曲がらない。そうすると自分の生きる道、プロとしてピッチャーとして生きる道はもうシュートしかないと。じゃあ、そのシュートをどうやって生かすかって考えて、握り方とか投げ方とかを自分なりに勉強して、結果的にああいう素晴らしいシュートが生まれたんですよね。
徳光:
そうなんですか、へぇ。

西本:
ボールの縫い目に中指と人差し指をかけるツーシームのシュートなんですけど、僕の場合、その指のかけ方を縫い目に対してちょっと斜めにするわけですよ。そして親指を内側に曲げるわけですね。それで、僕の場合は手首を使って左にひねりながら投げるんですけど、ボールを深く握ると落ちるんですよ。普通のシュートよりも落ちる感じのシュート。シンカーですよね。
徳光:
ああ、シンカーですね。
西本:
このシンカーというのは、バッターはボールの上を叩きますから、間違いなくゴロになりますし、うまくいけば自打球になるんですよ。
徳光:
曲がりがすごいんじゃなくて落ちるんですか。
西本:
落ちるんですよ。普通のシュートは横に曲がっていく。平松(政次)さんのは右バッターのインコースに食い込んでいく感じ。僕のは曲がりながら落ちる。だから絶対にボールの下は叩かないですよね。上を叩くからゴロか自打球になるわけです。
徳光:
それを今投げてる人はいませんかね。

西本:
あそこまで曲がる人はいないですよね。普通は肩か肘を壊すんですよ。僕はシュートを投げて20年間、肩や肘は1回も壊してないですからね。壊しかけたけど、壊さなかったです。
【中編に続く】
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/4/1より)
「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
https://www.bsfuji.tv/legendo/