プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

巨人、中日、オリックスと渡り歩き、切れ味鋭いシュートを武器に、ドラフト外入団最多の165勝をあげた西本聖氏。巨人時代はライバル・江川卓氏とともにダブルエースとして活躍。中日移籍1年目には20勝で最多勝を受賞。沢村賞1回。首脳陣との不和によるトレード、椎間板ヘルニアの手術など様々な難局を乗り越えた“不屈の男”に徳光和夫が切り込んだ。

【前編からの続き】

投球フォームは「巨人の星」星飛雄馬のマネ!?

徳光:
西本さん、18歳でジャイアンツへ入った頃には、もう足を上げてたんですか。

西本:
高校から上げてました。膝から足首の方はちょっと折れてたんですけど、プロに入って真っすぐに伸ばしたんです。

徳光:
へぇ。

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西本:
「巨人の星」の影響でしょうね。

徳光:
やっぱりそうなんですか。でも、それを突き詰めるってところがいいですよね。

プロ2年目の1976年、西本氏は開幕から一軍入りを果たす。初登板は4月15日の甲子園での阪神戦だった。

徳光:
初登板、甲子園っていうのはやっぱり感慨深かったでしょう。

西本:
うれしかったですね。

徳光:
高校時代に行けなかったわけですもんね。

西本:
そうですね。「これが甲子園か」って。でも、キャッチャーの吉田(孝司)さんが遠くに見えましたし、ストライクが入んないんですよ。フォアボール、ヒット、スリーランなんですよ。次の日から二軍に行かされました。

2年目はこの1試合の出場のみに終わった西本氏だったが、イースタン・リーグでは最多勝を獲得。3年目には一軍に定着し8勝、翌年も4勝をあげた。

徳光:
3年目8勝、4年目4勝でなんですけど、この間、定岡さんはまだ一軍での勝ち星がなかったんですよね。
同期入団で甲子園のスターですけど、まだ勝ってない。正直なところ、「やった、勝った。もう定岡は相手じゃねえな」みたいな…。

西本:
「抜いたな」っていうのはありましたね。

徳光:
やっぱり。でも、彼はそこから追いついてくるんですよね。

西本:
そうなんです。そこが、またすごいですよね。

“最強ライバル”江川卓氏の入団

徳光:
5年目の1979年にあの江川卓投手が入ってくる。このときはどういう受け止め方でしたか。

西本:
周りのみんなもそうですけど、「空白の1日」という問題が…。

徳光:
ありましたね。

1978年のドラフト会議の前日、巨人が野球協約の盲点を突き江川氏と入団契約。しかし、残る11球団が猛反発して江川氏の選手登録申請は却下され、巨人はドラフト会議をボイコットする。巨人を除く11球団で開催されたドラフト会議では、阪神が江川氏との交渉権を獲得。大紛糾の末、江川氏はいったん阪神に入団したあとトレードで巨人に移籍するという形で巨人に入団した。トレードの相手はエース・小林繁氏だった。

西本:
あまり空気は良くなかったですよね。

徳光:
ちょっと素直にはなれませんでしたか。

西本:
そうですね。これは僕だけじゃない、チームとしてね。

徳光:
でも、江川さんの入団が西本さんに火をつけたってことってありますか。

西本:
やっぱりそれはありますよ。誰もが認めるピッチャーですから。

徳光:
しばらくは追いかける立場ですよね。

西本:
そうです。その通りです。

徳光:
鳴り物入りで入って来たわけですよね。そうすると、「打たれろー!」みたいな気持ちになることっていうのは…。

西本:
ありました。打たれたら喜んでました。「やったー!」って言って。

徳光:
また、あっさり言いますね(笑)。

西本:
「相手のバッター、ここでしっかり打てよ!」って言って、点が入ると「やったー!」って。それは、ずっとありましたね。

徳光:
やっぱりそれはありましたか。江川さんは1つ年上ですよね。「江川さん」って呼ぶわけですか。

西本:
そのとき、定岡と「野球界は先に入った方が先輩だ。どうする?」って相談して、僕が「スグルちゃん」と言ったんです。江川さんのほうが年上なんですけど、「スグルちゃん」にした。サダは、「それもいいんじゃないか」って。スグルちゃんは「ニシ」って呼んでね。

徳光:
「ニシ」で。

西本:
それで、すぐ溶け込めましたね。江川さんも、自分が入ってきた状況が分かってるから、すごく気を遣ってましたよ。

徳光:
そうですか。スグルちゃん、ニシ、サダ坊、このトライアングルができるわけですね。

西本:
そうなんです。仲良かったです。お互いの家に行って遊んだりしましたしね。

徳光:
仲良かった。ちょっとほっとしましたね。もっとバチバチしているのかと…。

西本:
それはもうグラウンドだけですね、グラウンドを離れればね。

徳光:
でも、そういうお話を伺うと、ほんとに良かったなと思います。ファンの皆さんは「普段から話をしてないんじゃないか」って思ってたはずです。

西本:
そうかもしれませんね。

長嶋監督から“愛のムチ”20発

徳光:
ニシやんがミスターからビンタを食らった殴打事件みたいなの、ありませんでしたっけ。

西本:
あれは広島球場です。ゲームが終わったあとに監督室に呼ばれて、角(盈男)と2人で思いっきり殴られました。そりゃ、怒りますよ。7対1で勝っててツーアウトランナーなしでデッドボール、デッドボール、デッドボール。最後は衣笠(祥雄)さん、背中に行って骨折ですよ。大乱闘になりましたからね。

西本氏がこう語るのは1979年8月1日の広島戦のことだ。7対1と大量リードして迎えた7回に先発の西本氏が突然崩れる。3連続デッドボールに怒った広島の選手たちがベンチから飛び出し、両軍入り乱れての大乱闘となった。その後、西本氏は走者一掃ツーベースを打たれて降板、試合は結局、8対8の引き分けに終わった。

西本:
試合のあと、ピッチングコーチが「監督が呼んでる」っていうんで、監督室に行ったら、長嶋さんはシャワーを浴びてたんです。「俺たちは褒められるわけじゃない。怒られるわけだから、立つよりは正座しとこう」って待ってて。それで、シャワーから出てきたら、バスタオルを巻いたまま、思い切り20発くらいぶん殴られたんです。すごく激しかったですね。監督は逃げることが大嫌いじゃないですか。

徳光:
うん、うん。

西本:
気持ちが逃げたと思ったんでしょうね。

徳光:
なるほどね。

西本:
それにすごくカーッときたんだと思います。だから、それからは「逃げちゃいけない」って。「逃げたら、またぶん殴られる」と思ったから。

徳光:
ミスターは、ここぞってときは「命を取られるわけじゃねぇんだ!」って…。

西本:
そうそう、よく言いますよ。

徳光:
この人だって思う人には言うんだよね。

西本:
僕が一番怒られたんじゃないですかね。
甲子園で僕がリリーフやってるときかな。僕はお腹がすくと力が出ないタイプなんですよ。1回から敗戦処理でブルペンに行ってて、ベンチに帰ってきたらバナナがあったんですよ。お腹がすいてたから、「これ誰のかな、食べよう」と思って食べたんですよ。そのときに長嶋さんと目が合ったんですね。また、次の日も食べて目が合った。その日の夜のミーティングで、「バナナ食ってるバカがいる!」って怒られました。

徳光:
それ、自分で食べようと思ってたんじゃないですかね。取られちゃったから(笑)。
でも、江川さんには怒んなかったですもんね。

西本:
怒らない、怒らない。江川さんは殴られたこともないですよ。

徳光:
ちょっと「えこひいきだな」とか思いませんでしたか。

西本:
いや、そうは思わなかったですね。期待されてるんだなと。

徳光:
素晴らしい。そういうとこがニシやんの原動力ですね。

“世界の王”と1カ月間同じ部屋

徳光:
王さんとはどういう関係だったんですか。

西本:
普段は食堂で会話するくらいでした。あとは試合中、困ってるときにマウンドに来てくれて、ひと言声をかけてくれたりね。

徳光:
そういうとき、王さんはどういうことを言うんですか。

西本:
「大丈夫だから、自信持っていけよ」とか、「しっかり守ってるから大丈夫だ」とかって。

徳光:
間(ま)を作ってくれるわけですね。

西本:
そうですね。この間が大事ですよね。助かった面が多いですよね。

徳光:
やっぱりそうなんだね。

西本:
キャンプのとき、1カ月間同じ部屋だったんですよ。とても疲れましたね。

徳光:
どうしてですか。

西本:
だって、王さんより朝早く起きなきゃいけないでしょう。食事した後、練習に行くじゃないですか。バッティングピッチャーしても絶対当てちゃいけない。帰って食事した後、今度は先に寝ちゃいけない。

徳光:
そういうもんなんだ。

西本:
10時頃になると王さんが帰ってきて、じゃあそろそろ寝るかって思ったら、王さんは本を読むわけですよ。

徳光:
そこからですか。

西本:
はい。ベッドで本を読む。王さんが本を読んでるんで、俺は何もしないわけにはいかないと、読む格好だけして…。それで、王さんが「そろそろ寝ようか」って言ったら、「そうですね」って言いつつ、心の中では「待ってました」。「おやすみなさい」って言ったら、王さんはすぐ、すごいいびき。

徳光:
すぐに。

西本:
はい、いびきです(笑)。それで、次の日もまた同じように「王さん、起床のお時間です」。1カ月、その繰り返しですから。

徳光:
へぇ(笑)。

西本:
「王さんと同じ部屋になった選手は、その年一番期待されてる」って言われたんですよ。それはすごくうれしかったんです。うれしかったんですけど、あの王さん、世界の王さんと1カ月間は大変だなと思いながらやりました。でも、とてもいい経験をさせてもらいましたね。

“地獄の伊東キャンプ”江川氏と並んで300球

徳光:
西本さんは練習の鬼でしたよね。特に今も語り継がれてる“地獄の伊東キャンプ”、あれはすごかったですね。

“地獄の伊東キャンプ”とは1979年のシーズン終了後に、長嶋監督が若手選手を集めて静岡・伊東市で行ったキャンプのことだ。体力の限界を超える猛練習で、参加メンバーはのちにジャイアンツの主力選手となっていった。

西本:
春の宮崎キャンプだったら、練習が終わって宿舎に帰るとすぐ着替えられたんですけど、伊東キャンプは30分以上たたないと、ユニホームを脱ぐ気にならなかったですね。

徳光:
脱ぐ体力もないってことですか。あれ、何球くらい投げてましたか。

西本:
僕は300球くらい。2時間ちょっと。江川さんと2人で投げましたね。
ブルペンキャッチャーに怒られましたよ。隣で並んで投げてるでしょう。横を見ると江川さんが投げてる、終わらない。後で聞くと、江川さんも、「ニシやんが投げてるから俺は終わらない」。お互いに意地を張って投げてるんです。受けてるキャッチャーも大変じゃないですか。「お前ら、ええかげんにせえよ!」って。それが毎日ですからね。

徳光:
そうですよね。

西本:
その後に、今度は馬場の平っていうところへ行ってランニングするわけですよ。これがまたきつかった。モトクロスがレースするところを走るわけですよ。それから、「はい、腹筋300回」って言われて、僕らが「え、300回ですか」って言ったら、「嫌なら1000回やれば」って。お尻の皮がむけて血が出ましたね。

徳光:
そうなんですか。

西本:
下に何も敷かない野原でやるわけですから。

徳光:
伊東キャンプはほんと厳しかったんですけど、それだけ長嶋さん自身の思い入れが熱かったと思うんですよね。

西本:
すごく気合が入ってましたね。

徳光:
これで監督との距離が近くなったみたいなところはあるんですか。

西本:
はい、ありますね。

徳光:
西本さんの野球人生の中で、伊東キャンプっていうのはやっぱり特別ですか。

西本:
特別ですね。あれがあったからこそ自分もあった。

長嶋監督退任に涙

伊東キャンプの翌年、1980年に西本氏は14勝14敗、防御率2.59の成績で、自身初の2桁勝利をあげた。

徳光:
まさに伊東キャンプの成果が出た1年になりましたかね。何が2桁勝利に繋がったと思いますか。

西本:
やっぱりコントロールでしょうね。

徳光:
伊東キャンプでコントロールに自信をつけた。

西本:
それだけ投げ込みましたからね。

徳光:
この年は江川さんが16勝12敗で最多勝、防御率2.48で、西本さんより少し上ですけど、あれほど差があった江川さんと、ここでほぼ同等になるわけですよね。自分たちが巨人軍の2本柱になったっていう…。

西本:
そういう気持ちはありましたね。自分たちが引っ張っていかないといけない。ただ、2人で引っ張るんだけど、いつかは抜きたいという思いもありましたね。

徳光:
ただ、せっかく2本柱に成長したにもかかわらず、この年で長嶋監督が退任。これはショックだったでしょう。

西本:
ショックでしたね。知り合いのおすし屋さんで食べてて、ニュースを見て泣きましたよ。

徳光:
そうですか。

西本:
寂しかったですね。

【後編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/4/1より)

「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
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