浜松市中央区で小学生4人に軽トラックが突っ込み、1人が死亡したほか1人が一時重体となった事故から1カ月あまりとなる中、遺族が5月4日取材に応じ、苦しい胸の内を吐露した。
女児が死亡し姉は一時重体に
3月24日午後4時半頃。
浜松市中央区舘山寺町で軽トラックが小学生4人の列に突っ込み、当時2年生だった女児が死亡したほか、女児の姉も一時重体となる重傷を負った。
また、この事故では一緒にいた双子の姉妹も軽いケガをしている。

事故のあと、警察は軽トラックを運転していた高齢男性(78)を過失運転致傷の現行犯で逮捕・送検(送検時は過失運転致死傷容疑)したが、検察は4月14日に処分保留で男性を釈放。現在も在宅での捜査が続いている。
1カ月以上も謝罪なく伯母は怒り
こうした中、事故から1カ月あまりが経過した5月4日夕方、死亡した女児の祖母と伯母が取材に応じた。この時点で男性からの謝罪がなかったからだ。
伯母は「加害者が人を殺しているという事実をわかっているのか…手紙の1通もない。人間とは思えない。どこに気持ちを持っていけばいいのか…悲しみは言葉では表せない。憤りしかない。あの日からずっと…怒りで言葉が抑えきれない。同じ人間とは思えない。ただ(女児が)可哀想」と口にし、「許せないしか出てこない。被害者がものすごく苦しい思いをしている中で加害者も同じようになればいいと思うばかり。出来るものなら同じ思いをしてもらいたい」と胸の内を明かした。

その上で、男性に対して「私たちは女児を殺された。加害者がどんな人でどんな顔をしているのかすら知らない。隠れているなよ、卑怯だなという一言」と怒りを滲ませる。
この事故をめぐっては、現場にブレーキ痕が残っていなかったことや男性が当時の状況について「覚えていない」と供述していることがわかっており、伯母は「ブレーキさえかけていれば生きていたかもしれない。そこの判断が出来ないレベルなら乗るなと思うし、(運転を)止められなかった周り(家族)も同罪だと思う。『覚えていない』と都合のいいことばかり言っているが、私たちからすれば理由にならない。殺していることは事実なので、被害に遭った子供たちへの謝罪はしろと思う」と話す。

また、事故は女児の家や近くに住む伯母の家の目と鼻の先で起きたことから「(現場は)嫌でも目にするところなので考えられないくらいつらい。現場が近いというのは本当につらい」と声を震わせた。
やり場のない感情に祖母は涙
祖母によれば「人懐っこくて、いつもニコニコ笑っていた」という女児。
このため、祖母も「亡くなったその日から(時間が)止まってしまった感じ。自分の中でもう女児がいないんですけれど、まだいるような気がして。寂しさで何とも言えない」とハンカチで涙をぬぐった。

幸いにして一緒にいた女児の姉は一命こそ取り留めたものの何日かの間は意識不明の重体の状態が続き、外部性くも膜下出血・脳挫傷・頭蓋骨骨折という診断だったことから「長い人生において後遺症に悩まされるのではないか」との不安は払しょくできず、「普通のことができるようになってもらいたい反面、そういうこと(後遺症のリスク)を持って人生を送っていくと考えると切なくてたまらない」と肩を落とす。
一方、当の姉は妹である女児が亡くなったと聞いた時に泣いて以降、家族の前で涙を流すことがないといい、周りを気遣って自分の中で抱えてしまっているのではないかと心配している。
姉妹は事故の前日にも祖母の家へ遊びに来ていたことから、運転していた男性に対しては「きのうまで一緒にいた子が次の日には亡くなったことが受け止められない。わかっているけれど整理がつかない。考えるだけで涙が出てきてつらい。怒りと憎しみが(頭の中を)ぐるぐる回っている。やり切れない気持ちでいっぱい。ただ、ぶつけただけではない。人がこの世からいなくなっているのになぜ黙っているのか…考えられない。祭壇を見て何を思うのか。あなたのやったことで、この子がこの世からいなくなったと強く言いたい」と語気を強め、「いつもニコニコ笑っている笑顔のかわいい子だったので、私たちが『つらい』『つらい』と言っていると悲しいのではないかと思う反面、一歩前に出なければと思うけれどその一歩が踏み出せない。そういう気持ちと悲しんでいるんだろうなという気持ちと半々」と苦しさを吐露した。
5月に入り事故後初めて謝罪
遺族によれば、この取材を終えてから数時間が経った4日夜、軽トラックを運転していた高齢男性が事故後初めて謝罪に訪れたそうだ。
とはいえ事前に連絡や打診はなく、服装も普段着だったことから「怒りを通り越して呆れた」と憤り、「なぜもっと早く来なかったのか?」と尋ねても「警察が連絡先を教えてくれなかった」と話すばかりだったという。
この点について、5日朝、報道陣の取材に応じた男性は「(事故のあと)2週間勾留されていて、4月14日に釈放されたが、いろいろ報道されていたので気をつけて行動するようにということで1週間は親戚の家に泊まって家に帰り、(自身の農業)ハウスとの往復をたまにするくらいで、あとは(外に)出なかった。そういう時間を過ごしながらの3週間だったというような具合。自分たちは流れの中で何とかやっているかなという気も少しはあるが、遺族から『何で1カ月も経って1回も顔を見せなかったのか』というお叱りの言葉もあり、もっともだと感じたので、今後、それを補うようなことを何とかやっていきたいと今はそういう気持ちでいっぱい」と述べた。

他方、改めて事故当時の状況を聞くと「覚えている限りはカーブを曲がって現場に行く少し手前、いま思い起こせば事故現場の20~30メートル手前から前を走っていた小学生の自転車を全然思い出せない。衝突する2~3秒前から気を失ったと思う。それで衝突して5メートルくらい引っ張りながら石塀にぶつかり、トラックの下に自転車を巻き込みながらなお少し走ったのではないかと思う。止まったところですぐに目を覚ました。その時は胸を片一方(の手で)押さえて、片一方でハンドルを持った感じで目を覚ましたと思う」と、やはり記憶が曖昧である旨を主張。
ただ、「免許証も(事故を起こしたことで)取り上げられるのか、(そうでなくても)返納するつもりなので、車はもう一切運転しない」と言い切った。
過去3年間で他に2件の事故
男性の話では今回の事故のわずか数週間前にも物損事故を起こしていて、この時は突然目がくらみ、気づいた時には自身の車に傷がついたり、へこんだりしていたという。
さらに、3年前にも交差点で前方の車に接触する事故を起こしていたが、いずれも家族には報告しておらず「知られて乗れなくなると仕事にもいろいろ差し支えると思い、ついつい事故の度合いからして黙ってしまった。“たら”“れば”になるが、3月上旬に起こした事故の時にもう少し慎重に行うべきだったと今つくづく思う」と口にした。

事故後、報道陣の取材に応じるのは初めてで「釈放された時もなるべく避けていたが、公の前に出て自分のしたことをしっかり噛みしめて、こういうことをしてしまったとみなさんに知ってもらった上で、一生償っていくことの方が大事。どういう報道をされても、してしまったことは取り返しがつかないので、何とか自分たちの誠心誠意の態度・気持ちを一部でもわかってもらえるようにこれから償いをしていくつもり」と答えた男性。
遺族からは「理解できない」「納得できない」といった言葉をぶつけられたといい、「遺族の立場を考えれば、その通りだと深く思い1つ1つ噛みしめてきた次第。何が出来るのか、これから一生かけて償っていくつもり」と頭を下げた。
(テレビ静岡)