2025年2月、沖縄県糸満市にあるガマから「中」と彫られたバッジのようなものが見つかった。

戦後に作られた資料を紐解くとそれは、多くの生徒が学徒動員された沖縄戦をきっかけにわずか9年で廃校となった私立中学校の校章であることが分かった。

80年前の校章

沖縄県糸満市の丘陵地にあるガマには戦時中100人以上の地域住民が身を隠していたが、日本軍の兵士数人が現れ住民を追い出したという証言が残されている。

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遺骨収集ボランティア 浜田哲二さん:
このあと、日本兵はアメリカ軍の攻撃を受け、壕にいた十数人は全滅しました。戦後、遺骨は長い間放置されたままでした

ガマの中やその周辺では、当時のものと思われる遺留品のほか、遺骨も多く掘り出されている。

千葉県から遺骨収集に参加 辻美和子さん:
このあたりを熊手で掘っていると、出てきました。裏返したら『中』という字がはっきり見えました

掘り出されたのは、三角形にデザインされた葉の模様の中央に「中」と彫られたバッジ。

千葉県から遺骨収集に参加 辻美和子さん:
近くに骨もあったので、その方のものではないかと思いました

55年前の映像に手がかり

20年以上にわたり沖縄戦の戦没者の遺骨収集を続ける浜田哲二さんと律子さんは、3年前に沖縄県立第一中学校の校章をガマから掘り出して同窓会へ返還した。

故・石川榮喜さん(2022年3月当時):
帽子の校章です。おっしゃるとおり、間違いありません。私もつけていました。亡くなった人たちのことが目に浮かびます

では発見された校章はどこの学校のものなのか。手がかりは沖縄テレビのライブラリーに残されていた。

1970年、沖縄戦で廃校となった私立・開南中学校の卒業式が25年ぶりに開かれた際の映像には、男性が受け取った卒業証書に、ガマで見つかった校章とよく似た模様が記されていた。

沖縄県立歴史博物館関係者:
こちらが開南中学校の同窓会誌ですね

遺骨収集ボランティア 浜田哲二さん:
完全に一致だね

判明した学徒の犠牲

開南中学校は1936年、現在の沖縄県那覇市樋川(ひがわ)に創設された。

戦争が激化すると、校舎は石部隊の訓練所として使われるようになった。

4・5年生は鉄血勤皇隊として動員。2・3年生は通信隊などに入隊し、第62師団や第24師団に配属されたが、公的な資料はなく動員数や戦死者数は「不明」とされてきた。

しかし2019年、中学校教諭で沖縄戦を調べる大城邦夫さんが国立公文書館から貴重な資料を入手した。5つの学徒名簿が残されており、その中に開南中学校の名簿も含まれていた。

その名簿を見せてもらおうと浜田夫妻は大城さんを訪ねた。

資料を手にした浜田さんは本人の名前や戦没場所は記されていないか確認を進めたが、大城さんは「ないんです」と静かに答えた。

仲西中学校 大城邦夫 教頭:
発表のあと「名簿を見せてほしい」という遺族の方が来ました。その方は身内が開南中の学徒だったと言っていましたが、名前が載っておらず残念そうに帰られました。名簿に載っていることを期待していたので私も辛かったです

名簿に残されているかもしれないと、肉親の生きた証しを探しに訪れる遺族たち。

学徒の記憶残すため

浜田夫妻は開南中学校の関係者を探し、今は90代になった同窓生たちから証言を得たいと考えている。

遺骨収集ボランティア 浜田律子さん:
それもお骨ですね。腕の骨ではないでしょうか

遺骨収集ボランティア 浜田哲二さん:
顎の骨がついた歯はDNA鑑定が可能です

校章が見つかったガマの中や周辺では遺骨が見つかっており、DNA鑑定の実施に向けて遺族を探している。

ガマの奥深くから見つかった校章は記録の少ない開南中学校の学徒たちが戦場に駆り出された歴史に新たな光を当てようとしている。

(沖縄テレビ)

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