昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
今回のゲストはその王貞治氏。13年連続を含む15回の本塁打王に輝いたのをはじめ打点王13回、首位打者5回、MVP9回など数々のタイトルを獲得。長嶋茂雄氏とともに“ON砲”を形成し巨人V9に貢献。“一本足打法”でホームランを量産し世界記録となる通算868本塁打の金字塔を打ち立てた“世界のホームラン王”に徳光和夫が切り込んだ。
ミスターは特別な存在
徳光:
去年11月にジャイアンツの球団創設90周年セレモニーがありましたが、そこで久しぶりにミスター(長嶋茂雄氏)にもお目にかかったそうですね。

王:
お元気そうで、さすがミスターっていう感じでしたね。やっぱりミスターというのは特別な存在ですから。
徳光:
王さんにとってもですか。
王:
そうです。私が1年後輩なんですけど、入ったときから輝いてましたからね。もちろん大学のときから輝いてましたし、プロに入ってもすぐホームラン王と打点王取ったりしてね。
ちょうど川上(哲治)さんと入れ代わりでしたしね。戦後すぐから昭和50年までの野球の中で、やっぱり川上さんと長嶋さんは輝いてましたよね。
徳光:
王さんが初めて長嶋さんにお会いされたのは。
王:
入団前です。僕の入団が決まって、たしか9月の終わりくらいだったと思うんですけど、巨人軍が東京駅から広島に向かって夜行列車に乗るところだったんです。新聞社の企画でそれをお見送りするっていう形で、そこで川上さんとも長嶋さんとも初めてお会いしましたね。
徳光:
長嶋さんは既に大スターですよね。
王:
はい。1年目からバリバリ活躍されてましたし。
徳光:
王さんだって高3にしては破格の大スターでしたよね。
王:
長嶋さんの次の年だったおかげもあって期待されはしてましたけど、高校出と大学出というのはやっぱり違いますよね。体も違いますし経験も違いますし。
甲子園で大活躍…ノーヒッター&2試合連続HR

王氏は高校時代、早稲田実業で投打で活躍。1年生の夏から3年生の春まで甲子園に4大会連続で出場している。2年春には準決勝まで3試合連続完封勝利をあげて優勝に貢献。2年夏には2回戦で寝屋川高(大阪)を相手に延長11回の熱戦でノーヒットノーランを達成。3年春には打者として大活躍し、2試合連続ホームランを放った。
徳光:
これがすごかったですね、3年春の2試合連続ホームラン。
王:
そうですね。もう体も大きくなってきたおかげもあるんでしょうけど、最初はレフトへホームランを打ちました。
徳光:
当時は高校生も木製バットの時代ですから、甲子園で、左バッターでレフトへホームランはいなかったですよ。
王:
そうですね。レフトへホームランっていうのは、あまりいなかったですね。2試合目は右中間に打ったんですね。ただ、その試合で負けちゃったんで、その2試合で終わっちゃったんです。
徳光:
3年の夏は甲子園に出場できなかった。相手は明治でしたかね。
王:
はい。明治高校です。
徳光:
今のその表情を見ると、本当に悔しかったみたいですね。
王:
そうですね。やっぱり3年夏は最後の甲子園ですから、絶対に出たかったんですよ。自分としては精いっぱい投げられたと思うんですけどね。

この年、早稲田実業は東京大会決勝で明治と対戦、1対1で迎えた延長12回表に4点取って5対1とリードを奪ったものの、その裏に5点取られて6対5で逆転サヨナラ負けを喫した。
徳光:
そうすると、3年夏で燃え尽きた、燃え尽き症候群みたいな感じがあったんですか。
王:
いやいや、大学に行くつもりでしたから、それはありませんでした。でも、甲子園に行けなくなったんで、気持ちは「じゃあ大学はやめてプロに行こうか」ってなってました。
徳光:
大学に行くとするとやっぱり早稲田大学でしたか。
王:
やっぱり早稲田だったんですけど、うちの兄は慶應なんですよ。ちょっと迷いましたね。早稲田に行かなきゃいけないけど、慶應も兄で見てましたし…。

徳光:
お父さんに話を伺ったときには、「早稲田の理工学部に進ませようとした」っておっしゃってました。
王:
おやじは中国から日本へ来て、苦労して働いてたんでね。私はあんまり分かんないんですけど、やっぱり就職するのは狭い門だったらしいんですね。だから、腕にしっかりした職をつけてれば、技術を持っていればということで、そう言ってたようですね。
徳光:
なるほどね。
王:
でも、3年の夏に負けてからは、大学に行くよりもプロへっていう気持ちに変わってました。
兄のひと言で阪神から巨人へ
徳光:
そうですか。でも、王さん、実際にプロ野球に入るときには阪神に入団する可能性もあったと。

王:
はい。私が「大学へ行く」と言ってたんで、ジャイアンツサイドはあんまり話をしてくることがなかったんですけど、3年の夏に負けちゃった後、阪神さんから色々と話がありまして、うちの両親も、「お前、阪神に行った方がいい。阪神は甲子園が本拠地だし、お前は甲子園を目指してやってたんだから」って言って。それに「ジャイアンツは大学出が多いけど、阪神は高校出が多いから、お前も阪神に行ったほうが苦労しないだろう」と。これは親心でしょうけどね。
徳光:
そうですか、お父さん、お母さんが。
最終的に巨人軍に入ったのはどうしてなんですか。

王:
いろいろ思い悩んで、両親とか兄とかおじさんとかおばさんとか、みんな集まって、家族会議みたいなのをやって、侃々諤々あったんですけど、最終的に兄貴が「お前はどうしたいんだ」と聞いてくれたんですね。「僕はジャイアンツに行きたい」と言ったら、「お前がそう思ってるんだったら、そうした方がいい」ってなって、兄のひと言が大きかったんです。その後、阪神への断りも兄が入れてくれたりなんかして…。だから、兄には本当に頭が上がらないですね。
徳光:
お兄さんとはおいくつ違いになるんですか。
王:
10歳違うんです。
徳光:
じゃあ、もう社会人だったんですね。
王:
だから、兄というよりもおじさんでした。
直面した「プロの壁」
徳光:
ジャイアンツに入ったときには、「投手もやりたい」みたいなお気持ちはあったんですか。

王:
いや、私は「もうバッター1本でいこう」という思いを持ってました。ところが、一応ブルペンに入って投げて、紅白試合みたいなのでも1回投げたんです。そしたら、次の日に呼ばれまして、「もう明日からピッチャーやんなくていいから」って。たった2週間でクビになりました(笑)。
徳光:
それは川上さんが言ったんですか。
王:
水原(茂/当時・円裕)監督、川上(哲治)バッティングコーチ、中尾(硯志)ピッチングコーチと3人並ばれてですね。その当時は監督、コーチの言うことは絶対ですからね。正座して「分かりました」って言って。ピッチャーとしての自分の気持ちもありましたんで、案外抵抗なく受け入れられました。
徳光:
なるほど。じゃあ、そこから打者専念ということで。
王:
はい、そうですね。

バッター1本で勝負した王氏だったが、入団1年目の成績が打率1割6分1厘、7本塁打、2年目が打率2割7分0厘、17本塁打、3年目が打率2割5分3厘、13本塁打と伸び悩んだ。
徳光:
やっぱり高卒の若い選手にとっては、甲子園であれだけの活躍をした王さんでも、プロは大変でしたか。
王:
やっぱり違いましたね。球の速さも違いますし、球が重いんですよね。高校生の仲間たちの球は打ったら跳ね返って軽く飛んでいくんですけど、プロの球は重かったから、ほんとにいいところで打たないと飛んでいかない。
それと、フォームも色んな人がいましたね、横から投げる人もいたりなんかして。全てが初めての体験で思うようにいかなくて、「なぜだろう」って考えちゃうくらいに打てなかったですね。
合宿所時代の王氏について、「プロ野球レジェン堂」に出演した柴田勲氏や堀内恒夫氏は、「門限破りの常習犯だった」と証言している。このことを王氏にぶつけると…。

王:
やはり打つ方がうまくいかないから面白くないんですよね。高校まで野球ばっかりやってたところに、お酒をちょっと覚えたりなんかすると、やっぱりそういったことについつい気持ちがいってしまって…。だから、試合が終わって仲間たちと一緒に帰ってくるときに、ちょっと寄り道して門限に遅れて怒られたりだとか、いったん帰って寮のおばさんたちが寝ちゃってから出掛けてったりとかね。
当時の若者たちが経験することを、私もひと通り経験しました(笑)。
徳光:
そうですか(笑)。
王:
その後はあんまり悪いことはしませんでしたから(笑)。
荒川博コーチと生み出した一本足打法

徳光:
悪いことをしないようにしたのは、4年目の荒川コーチじゃないですか。
王:
そうですね。とにかくずっと野球に集中して、遊び歩いてる時間がなくなりましたからね。
1961年のオフに荒川博氏が巨人の打撃コーチに就任。荒川氏は、中学時代の王氏が野球をしているところにたまたま通りがかってその素質を見出し、母校・早稲田実業への進学を勧めた人物だ。そのときは毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)で左の強打者として活躍していた外野手だったが、1961年に巨人のコーチになったことで、王氏と運命の再会を果たした。
徳光:
ここで核心に迫りたいと思うんですが、一本足打法というのはお2人でお考えになったんですか。

王:
そうですね。4年目の6月30日に川崎球場で大洋(現・DeNA)と試合がありまして、そのときに2三振して代えられちゃったんですよ。球場にはいつも荒川さんの車で一緒に行ってたんですけど、その帰りの車の中で「もう打てそうもない」というぼやきを、私が荒川さんに言ったんですね。打球が詰まるのが私の悪い病気だったんですよ。
そしたら荒川さんは、「そんなに思うんだったら、詰まるのを避けるために、とにかく始動を早くしよう。ピッチャーが足を上げたら、お前も思い切って足を上げてみろ。ピッチャーが足を下ろしたら下ろすっていうフォームでやってみろ」と。
その日、帰ってから荒川さんの言うように練習しました。ただ、やったことがないことですから、足上げて、ついて、下ろすっていう感じでやって…。
次の日、また川崎球場に行って試合に出たら、第1打席でライト前にポーンとすごくいい当たりが出たんですよ。第2打席では、立教大学出身の稲川(誠)さんっていうピッチャーのボールを見事にライトへホームラン打てたんです。その試合、5打数3安打だったんですけど、「あ、これだったらいけそうだな」と思って、それから練習に熱が入りましたね。
徳光:
完成形にもっていくわけですよね、
王:
完成形というところへいくまでは3~4年かかりましたけど。
徳光:
そんなにかかったんですか。
王:
かかりました。やっぱり相手のピッチャーの動きも一定じゃないですからね。最初のうちは、ピュッと放られたら、足を下ろす前にボールが入っちゃったりとかね。
徳光:
相手も対策してきますからね。
王:
そういうこともありましたけど、なんだかんだで…。
その年、6月までのホームランは9本だったんですけど、7~9月で29本ホームラン打って、ホームラン王(38本)になっちゃったんですね。そんなこと思いもよらなかった。ホームラン王なんか思ってなかったんですけど取れたんです。

徳光:
そこからホームラン王を意識するようになったんですか。
王:
そうですね。それまでは全然タイトルなんて考えたことはなかったですね。4年目の7月から、これは行けるって、どんどんのめり込んでいきましたね。
徳光:
ところで、あの有名な垂れ下がっている短冊を日本刀でスパッっと斬る練習、あれは…。
王:
バットっていうのは、水平にスイングしようとしても、やっぱり多少は下がるんですね。大きく下がるのを少なくしようという練習です。ですから、実際にああいうふうに打つ気はないんです。感覚的なもの。そういう感覚で練習していてちょうどいいんですね。
徳光:
それは大谷選手にも相通じることですかね。
王:
彼は水平というよりはちょっと下からバットが出ます。バットの先が重いですから、それは当然なんですね。ただ、僕が思う彼の一番いいところは、フォロースルーが大きいことですね。それで、ボールとバットが付いてる時間が長いんで、彼のホームランは距離を飛んでいくんだと思いますね。
徳光:
飛距離がすごいですもんね。
王:
あれは大したもんだと思いますね。
【中編に続く】
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/2/18より)
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