東日本大震災から9年半。
津波で大切な家族を失い、農地に被害を受けながらも、新たにピーマンの栽培を始めた農家。
立ち止まらず歩み続けてきたという、一家の9年半を追った。
岩手・陸前高田市小友地区で、ピーマンの栽培に取り組む村上強さん(49)。
今、収穫の最盛期を迎えている。
ピーマン農家・村上強さん:
やっぱり育てるかいがある。うれしい気持ちになりますね
陸前高田市には現在数軒しかピーマン農家はないというが、夏場でも暑くなりすぎない気候が適していると考え、2019年から栽培を始めた。
ピーマン農家・村上強さん:
(夏でも)涼しい気候で、なかなか色づきも良いようなところがある。おいしいピーマンだと思います
東日本大震災で田んぼが全滅…息子も犠牲に
農地が広がるこの一帯も、東日本大震災で被災した。
陸前高田市では津波で1,761人(関連死含む)が犠牲となり、3,807世帯が全壊の被害に遭った。
ピーマン農家・村上強さん:
春の緑と秋の黄金色が風景のメインだったから、がらっと変わった感じがする
震災前はコメを中心とする農家だった村上さん。13ヘクタールの田んぼが被災した。
そして、当時中学1年生であの日 街に買い物に出ていた次男・駿大さんを津波で失った。
野球部だった駿大さん。レギュラーを目指し、日々練習に励んでいたと言う。
ピーマン農家・村上強さん:
仲間と一緒にやっていれば、良かったんだろうな
妻・貴美さん:
グローブにちゃんとボール入れて、このまま。友だちは大事にする子でしたよ。すごく
あの日から9年半。
小友地区の農地では区画整理が行われ、復旧はほぼ完了した。
ピーマンで農業を盛り上げたい
震災を機に、ピーマン農家となった村上さん。
収穫には近所の人の手も借りている。この挑戦を、地域の農業の盛り上げにもつなげたいと考えていた。
ピーマン農家・村上強さん:
地域の雇用になれば良いのかなとか、そういう部分で人に頼みやすいピーマンが一番いいのかなと。このくらいの大きさだよということを示せれば、誰でも収穫できる部分もある。若い人たちにも目を向けてもらって、農業で頑張りたいと思ってくれる人が増えてくれればいい
栽培はまだ2年目。年によって異なる天候への対応に手探りの毎日。
ピーマン農家・村上強さん:
7月の長雨が(収量に)響いているのかなという感じがしますね。8月以降の天候がいいので、ここからまた回復してくれればいいなと
自宅の仏間には、2018年 駿大さんの成人式に合わせてつくられた写真、そして野球道具が今も大切に飾られている。
何か困難があっても、駿大さんが支えてくれているように感じると村上さんは言う。
ピーマン農家・村上強さん:
せっかく生きているので、やっぱり止まることよりも前に進むような形を取っていこうかなと。いろいろな作業の中で、そう言えばこういうことが前にあったなと気を付けてやったときに「なんかこれは早く知らせてもらってうまくいっているな」と。少なからず(駿大さんが)伝えてもらっているのかなと思う
自宅に運び込んだピーマンの箱詰め作業には、妻の貴美さん(47)も加わった。
その作業中、陣中見舞いに訪れた人が、隣の大船渡市で働く長女の綾菜さん(26)。
綾菜さんは高校時代、盛岡の強豪校でバレーボールに打ち込み、リベロとして全国大会に出場した経験の持ち主。
震災をきっかけに看護師となって6年目、コロナの影響もあって忙しいなか、地域医療を支えている。
ーーどちらの病院ですか?
長女・綾菜さん:
大船渡病院です
ーー今大変ですか?
長女・綾菜さん:
大変です。そもそも人員不足なので
地元の大豆を使った「豆腐づくり」も
村上さんは震災後、豆腐づくりにも取り組んでいる。
ほかの親族がしていた作業を引き継いだのだ。
地元産の大豆を使い、自宅にある作業場で週に1回、200丁をすべて手作業でつくっている。
妻・貴美さん:
夏は(暑くて)大変、冬は寒いし。水に手を入れるだけで冬は大変
夫婦で支え合いながら、9年半を歩んできた。
妻・貴美さん:
ずっと一緒にいるからね
ピーマン農家・村上強さん:
黙ってやってはいないけど
妻・貴美さん:
いろんな話、してますよ
ーー円満の秘訣という感じですね?
妻・貴美さん:
じゃそういうことにして
生活の中心となったピーマンの収穫は10月末まで続く。
作付面積は2019年の1.5倍の12アール。今後さらに増やす計画。
ピーマン農家・村上強さん:
10年というのは、あっという間の10年だった。もうちょっと収量を上げて、もうちょっと雇用を増やせるようにしたい。これからの10年も頑張れるようにしていきたい
ピーマンが地域の名物と呼ばれる日を夢見て。村上さんはこれからも前だけを見据え歩み続ける。
(岩手めんこいテレビ)