阪神・淡路大震災から2025年1月17日で30年。6434人もの尊い命が奪われたあの日、一瞬にして街が一変する光景を目の前で見た男性が、今は消防士として人々の命を守る立場に立っている。当時「この世の終わり」とさえ感じた震災体験は、その後の人生を大きく変えることとなった。
一瞬で変わり果てた街 震災発生時の衝撃
1995年1月17日早朝、神戸の街を経験したことのない揺れが襲った。

当時20歳で神戸市内の大学に通っていた青木秀次さん(50)は、その瞬間を「音がしまして、ドーンっていう爆発音みたいな音がしたんです。遠くからゴォーっていう地鳴りみたいなのが徐々に徐々に近づいてきて、その地鳴りとともに建物が大きく揺れだした」と振り返る。

揺れが収まった後、窓の外に広がっていたのは一変した景色だった。青木さんは「景色が一変してて、窓から見えるはずの木造アパートが見えなくて、その向こう側が見えてたんです。なんでって思って顔を出したら木造アパートの1階部分がつぶれてるのが分かって」と当時を鮮明に覚えている。

「あの頃、まだノストラダムスの予言みたいなのが言われている時で、本当にこれがそうなんじゃないんかって、まず最初に思いました。地震が来たけど本当この世の終わりってこんなんじゃないのかって、その時、冗談抜きでそう思いました」と青木さんは語った。
震災が教えた助け合いの尊さ
近くの中学校に避難した青木さんは、そこで初めて地震の大きさを知ることになる。

「ある方がラジオを持って避難されてたので、そのラジオを頼りに避難してきた人が情報を得るという形で。その時に初めて、震源地が淡路島でこのくらいの揺れでっていうことを聞いて。実家とか他の友だち大丈夫なんかとか、そんなことを考えました」
その後、友人や先輩の無事を確認した青木さんは、先輩の家に集まり今後について話し合った。
そこで印象深い出来事があった。

青木秀次さん:
兵庫県加古川市から友達が先輩のところに来て、今でも覚えてるんですけど、「食べ物持ってきたぞ」って来たんですよ。ものすごく今でもその時の感謝というか、ありがたいなっていうのは覚えてまして。

翌日1月18日には家族の車で四国中央市へ避難。大学は休校となり、5月から再び授業がはじまったものの、校舎のひび割れがひどく、グラウンドの仮設校舎で残りの大学生活を送ることとなった。
使命として選んだ消防の道
震災から2年後、大学を卒業した青木さんは地元・四国中央市の消防本部に入り、救急救命士の道を選んだ。その決断の背景には、震災を経験し、「人の役に立ちたい」という思いがあった。

青木秀次さん:
何もできなかったんですよね、震災のときに。何にもボランティア的なこともしない、自分は何もできない、非力だと思って避難しちゃったことに対して負い目もあってですね。そこの部分を就職消防って決まった時に、お世話になった人に恩返ししようと思ってなったんで、そこだけは守らないとって思ってました。
現在、四国中央市消防本部警防課課長補佐兼警防係長として働く青木さんは震災での経験を踏まえ、特に力を入れているのが自助の大切さを伝えることだ。

「この30年の間に家族が増えた中で、家族にも実際に本当にこういう災害があると(自分は)仕事にかけつけないといけないから、家のことは自分らでなんとかしないといけないという話をしている。実際にあったら消防の人たちは必ずここにきてくれるわけではないから、自分らで身を守らないといけないという話しは一応してますので、それは一般市民の方にもなんかあった時には伝えている」と青木さんは語る。

南海トラフ巨大地震の発生確率が30年以内に「80%程度」に引き上げられた今、過去の災害から学ぶことの重要性は増している。

「実はなるべく1月17日を忘れないようにってことで、その時間に合わせて起きて黙とうできる時は黙とうしてるんです。周りに住んでた多くの方が亡くなったということで自分の中で絶対忘れちゃいけないことだし、今の仕事のベースに阪神・淡路大震災っていう出来事はあるんで」と、30年の時を経て、あの日の記憶は消防士としての使命感となって、今も青木さんの中で生き続けている。
過去の災害を振り返り、そこから得た教訓を今に生かすことが重要だ。
(テレビ愛媛)