今月11日、阪神・淡路大震災の被災者、菊地いつかさん(旧姓:加藤・45)は、毎年追悼のつどいが開かれている神戸市の「東遊園地」を訪れた。

■【動画で見る】自宅の下敷きになり亡くなった妹 跡地に咲き誇った妹のひまわり 背負った姉の葛藤

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いつかさんは、「復興のシンボル」として、30年間各地で花を咲かせている「はるかのひまわり」を広めてきた。

菊地いつかさん:30年ってすごい長いな。当時15歳の私が45やもん。まさしく中年にかかってて。

30年前の阪神・淡路大震災で神戸市の自宅が倒壊し、妹のはるかさん(当時11歳)が下敷きになって亡くなった。

■自宅が倒壊し亡くなった妹のはるかさん。その後花を咲かせたひまわりは「はるかのひまわり」として広まった

その年の夏、自宅の跡地にはひまわりの花が。

はるかさんが可愛がっていたオウムのエサだった種が育ち、花を咲かせたのだ。

周りの人たちはこの花を「はるかのひまわり」と名付け、この種はいつしか全国で知られるようになった。

菊地いつかさん(2006年):命っていうことをひまわり通じて何か感じてもらえたらという気持ちで。

いつかさんは「はるかのひまわり」を広めるために、様々な場所で種を配る活動を続けた。

■「はるかのひまわり」は上皇さまが詠まれた歌の題材にも

影響は世界にも… アメリカの画家が「はるかのひまわり」をモチーフに絵を描き、神戸市役所で展示された。

2019年、平成最後の年に上皇さまが詠まれた歌の題材は「はるかのひまわり」だった。

菊地いつかさん:14年前に遺族から渡った種が天皇・皇后両陛下(当時)まで気持ちが届いているのかなと思うと、とても嬉しく思いました。

■「はるかのひまわり」というシンボルを背負う重さに姉のいつかさんは複雑な感情を抱く

道徳の教科書にも掲載されるなど有名になっていく一方で、いつかさんはずっと複雑な感情を抱えていた。

菊地いつかさん:若いときは、それこそ20代とかは負担の方が大きかった。何かあれば、はるかの姉として出るのが。なんか重たいなっていうのはすごくプレッシャー。考えてみれば全然周りの目なんか気にしなくてもいいんだけど、なんかしとかなあかんのかなっていうプレッシャーみたいなものはあって。

自分自身も被災者で、まだ若かったにもかかわらず「はるかのひまわり」というシンボルを背負う重さ。

■家族との関係に苦しんだことも

家族との関係に苦しんだことも…。

菊地いつかさん(2014年):気持ちの整理が誰も出来ていなかった。母は母で娘が亡くなったことをどう受け入れるか、父は父で悩んでただろうし、私は私で親に迷惑かけちゃいけないなという気持ちが働いていたので。 母がずっと『はるかがはるかが』っていうのがあったのかな。『それなら私いらん子か!』とか、『私が死ねばよかったのか!』とかそういうことがあって。

■他の被災者や遺族との交流で、いつかさんの気持ちに変化が

そんな、いつかさんの気持ちが少しずつ変わっていったのは、他の被災者や遺族との交流がきっかけだった。

震災の記憶を残すための団体「1.17希望の灯り」に設立メンバーとして参加し、人とのつながりが増えていきました。

菊地いつかさん:震災のご遺族とか、他の事件・事故のご遺族と会う機会があって、自分が母親になかなか聞けないこと。子どもが先に亡くなって、残された子どものこと、どう思う?とか。 親の考えてること。子どもの考えてることが話せたのは大きかったな。そこからいろいろと、また輪が広がっていって、ほかの人たちいろんなとこで繋がって。そこに、もちろんはるかのひまわりもあって。

■「はるかのひまわり」が心の支えとなった被災者も

さらに、「はるかのひまわり」がほかの被災地に届けられたことで繋がる縁も。 東日本大震災で家族4人全員を亡くした佐々木清和さん(58)。 「はるかのひまわり」が心の支えだった。

佐々木清和さん:ここで生活してたよ、家族5人で。証というか、『いたよ』という記憶を残したい。私が最近思っているのは、日々の生活がいかに幸せかということです。

■「はるかのひまわり」をきっかけに繋がる縁

こうした経験を語るため、佐々木さんが大阪の中学校に来たとき、初めていつかさんと会った。

佐々木清和さん:つながりが膨らんでいくと。東日本大震災も阪神淡路のことを知ったりして、輪を広げながら、子孫に伝えていくことが少しずつ出来るのかな。単独じゃなくて。

菊地いつかさん:一人ではできないことですけど、いろんな人の手を借りて広がっていくというのは、とてもやっぱり残したものは大きかったのかなと改めて。

■いつかさんは娘に「はるかのひまわり」のことを話せていない

いつかさんの人生の中で大きな存在となった「はるかのひまわり」。

しかし、娘の良(りょう)ちゃん(6)にはまだこのことを話せていない。

菊地いつかさん:避難訓練とかを保育園でもやっぱりするから。お母さん、地震の時はこうするんだよとか、すごいこっちに教えてくれる。 まだ話していない。ちゃんと。子どもに、本当はおばちゃんが、お母さんの妹がいて、その人が震災で亡くなったんだよ。 今、『はるかのひまわり』として、いろんなところでひまわりとなって、いろんなところに元気づけたりとかしてるっていうのをどのタイミングで言うんかなっていうのが。

娘の重荷にならないか、悩んでいる。

■震災から30年「はるかのひまわり」についてどう思うのか

「はるかのひまわり」について、いまどう思うのかー。

菊地いつかさん:阪神・淡路大震災で直接亡くなった方でも6000人以上の方がいらっしゃる中でそういう形で、シンボルフラワーとして花に名前が残ってる。 『はるか』だけではないし。同じように亡くなった子供たちは、他にもたくさんいる中で、そうやって名前を残してくれてるのは、家族としては嬉しい。だけど、うちの妹だけの名前で申し訳ないっていう気持ちもあるし。

30年の月日が経ち、いつかさんが頼りにしていた復興に力を尽くした人たちも亡くなった。

菊地いつかさん:(震災)当日のことを今知ろうと思えば、いろいろとデジタルで情報が手に入る時代で資料もいっぱいあるから、そっちで見てもらえばいいけど。 そこから30年かけて歩んできたこと、感じたこと。改めて命について、考えてもらうほうがいまは大事なのかな。

「はるかのひまわり」と共に過ごした30年。これまでも、これからも、はるかさんへの想いを胸に、生きていく。

(関西テレビ「newsランナー」 2025年1月16日放送)

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