静岡県浜松市。ここに年老いた2人の姉弟が暮らしている。袴田ひで子(91)と巖(88)だ。巖は半世紀近く拘置所にいたことで心身に異常をきたす拘禁症を患っていて、釈放から10年あまり経った今なお意味不明な言動が続く。ひで子は弟に代わって無罪を勝ち取ると決め、現在は法律の壁を打ち破ろうと動き出している。(敬称略・#1~4から続く)
検察は不服を滲ませながらも控訴断念
静岡地裁の判断に検察はどう対応するのか?
それは控訴期限を2日後に控えた10月8日だった。
検察トップの畝本直美 検事総長が異例の談話を発表。
そこには「“5点の衣類”が捜査機関の捏造であると断定した上、検察官もそれを承知で関与していたことを示唆していますが、何ら具体的な証拠や根拠が示されていません。本判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないものであり、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容であると思われます。しかしながら、袴田さんが結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果、本判決につき検察が控訴し、その状況が継続することは相当ではないとの判断に至りました」と記されていた。
そして、翌9日。
逮捕から実に58年が経って巖の無罪が確定した。
捜査機関の謝罪にひで子は
これを受け、10月20日に静岡県警の本部長・津田隆好が袴田家を訪問。
「逮捕から無罪確定まで58年間の長きにわたり、言葉では言い尽くせないほどのご心労とご負担をおかけし、申し訳ありませんでした。今後、静岡県警察としては、より一層緻密かつ適正な捜査に努めてまいります」と巖とひで子に頭を下げた。

静岡県警は当時の捜査に問題があったことを認め、約20人体制で元捜査員や関係者への聞き取りを始めている。
また、約1カ月後の11月27日には静岡地検のトップ・山田英夫も袴田家を訪れ、2人に「今回の無罪判決を受け入れ、控訴しないと決めたものである以上、対外的であるか否かを問わず、この事件の犯人が袴田さんであると申し上げるつもりはございませんし、犯人視することもないということも直接お伝えしたいとも思います。改めまして大変申し訳ございませんでした」と謝罪。

これに対し、「私も巖も運命だと思っておりますの。無罪が確定致しまして、いまは大変喜んでおります。有頂天になっているんです。それですので、きょうはご苦労様でした。わざわざお出で下さいましてありがとうございました」と返したのはひで子だ。
とはいえ、“運命”というにはあまりに長い。
再審法改正に向け闘いは続く
一方、殺害された夫婦の孫は複雑な感情を抱いている。
現在の思いを綴った手記には「裁判所が出した判決、そして、これまでの審理に基づき控訴を断念した検察の判断は受け入れています。ただ、再審開始決定、そして、無罪判決まで長期間にわたったこと。それによって袴田さんが死刑判決を言い渡されたことしか知らずに亡くなった当時の方々のこと。現状からは時が経ちすぎ、あらゆる状況からでは真相解明することが難しいこと。若くして亡くなった被害者は決して報われません。事実に基づいた審理のために再審法については証拠開示の制度を設けることが必要ではないでしょうか。不服申し立てについてはその判断が正しいのかを検証する第三者機関を設けるなどシステムの精度を上げると同時に、その規定が双方(検察官・弁護人)に対し公平であることが必要ではないかと、素人ながらに思います」と書かれている。

こうした中、いま全国各地の地方議会で可決されているのが再審法の改正を国に求める意見書案だ。
福井女子中学生殺人事件で、巖の無罪確定から約3週間後に再審開始が確定した前川は「再審に新しい風が吹き始めていると思う。獄中にはまだまだ冤罪で苦しんでいる人がたくさんいる。注目されている人はまだまし。監獄の在り方や刑事司法の在り方、言い出せばきりはないが、福井女子中学生殺人事件がそれらに与える影響が多少なりともあるのであれば私は本望」と話す。
ひで子は言う。
「冤罪事件なんてウチだけだと思っていた、当時は。ウチだけこんなひどい目に遭っていると思っていた。そうではないということがわかった。死刑囚は命を取られるから私は一生懸命やったけれど、そうでない人だっている。その人たちだって助けなきゃ。法律を変えないとしょうがない。国会議員にも弁護士にも頑張ってもらって、いっぺんに変えるのは無理だから、ひとつずつでいいから変わってもらわないとしょうがない」と。

言わずもがな冤罪は最大の人権侵害だ。
ひで子は冤罪の被害者として生きた弟の58年間を無駄にすることなく、警察や検察、裁判官、そして弁護士、司法に携わる者が今一度、この年月の重みをしっかり検証してほしいと願っている。
ここに30年以上前、死刑の恐怖に怯えながらひで子に宛てた巖の手紙がある。
「裁判で無実であったことの事実が認められても、すでにその時は再審請求を度重ねたあとであり、人生を純粋にやり直すにはあまりにも遅すぎた」
「私は当裁判所に・未提出証拠物の全提出命令を検察官に対して発してほしいのである」
「本件の誤判を速やかに正し得る最大の力とは今日未提出の証拠物の全面開示、つまり権力による真実の解放にある」
闘いはまだ終わっていない。
(テレビ静岡)