東日本大震災の津波により620人が死亡し211人が行方不明となった宮城県南三陸町。6割以上の建物が全半壊する被害を受けた。2011年3月11日、南三陸町の佐藤仁町長は地震の対応にあたっていた防災対策庁舎の屋上で津波に襲われ、津波にのまれながらも奇跡的に生還を果たした。しかし、同じ庁舎にいた町職員の多くは死亡または行方不明に。町民や職員の命を守り切れなかったという自責の念を抱えながら、これまで町政運営を担ってきた。
この記事の画像(13枚)頭にこびりついた“あの日”
「やはりこの場所に来ると、あの時の町の姿が蘇ってくる」
南三陸町の佐藤仁町長(72)は骨組みだけになった防災対策庁舎を前に語り始めた。あの日から13年半。どれだけ時間が経っても忘れることができない記憶がある。
南三陸町は2005年、志津川町と歌津町という2つの町が合併して誕生した。リアス式海岸特有の自然豊かな景観が自慢だ。佐藤町長は旧志津川町の町議会議員を経て、南三陸町の初代町長となった。以来、5期にわたり町のかじ取り役を務めている。
東日本大震災が発生したのは2期目の途中だった。議会中に発生した大きな揺れの後、すぐに隣接していた防災対策庁舎へ駆け込んだ。大津波警報が出る中、避難の呼びかけなどをしていたところに津波が襲来。他の職員とともに高さ約12メートルの屋上に上がったが、津波の高さはそれを上回り、佐藤町長はあっという間に波にのまれた。偶然、外階段のフェンスに体が打ちつけられ、屋上に踏みとどまれたという。
第2波、第3波と次々に押し寄せる津波。佐藤町長はアンテナにしがみつき、第4波まで耐えることができた。これ以上は耐えられない…そう思った時、津波は屋上に届かなくなった。
夜が明ける恐怖
周りを見ると職員の姿はほとんど見えなくなっていた。生存したのは町長を含め10人。防災対策庁舎にいた職員など43人は流され、死亡または行方不明となった。
次に襲ってきたのは吹雪だった。ずぶ濡れとなった体に、寒さが痛いほど突き刺さった。生き残った職員同士で体を寄せ合いマッサージをしたが、耐えられそうにない。職員が持っていたライターで運良くネクタイやベニヤ板に火を点けることができたのが救いだった。10人で励まし合いながら一晩を越した。「夢だよね」現実を受け入れきれない会話が続いた。佐藤町長は「生き残った我々でこの町の復興をさせるぞ」と職員に伝えたが、夜が明けて町の姿を見るのが怖かったと振り返る。
骨折に手の穴…痛み感じず
翌朝、ロープを使って地上に降りた。避難所の小学校にたどり着くと新たな危機を感じた。食料や暖房器具が足りない。町民の避難生活に限界が来るのは時間の問題だった。佐藤町長はすぐに情報発信に取り組む。会見は毎日2回。とにかく町の現状を伝え続けた。「小さな町は発信し続けなければ埋もれる」休む暇などなかった。
実はこのとき、佐藤町長のあばら骨は折れ、手には穴が開く大けがをしていた。しかし、興奮していたためか痛みは感じなかったという。亡くなった職員を思えば、気力を振り絞れた。
「震災直後のあの時期に気力が折れていれば『もう勘弁して』と思ったかもしれないが、この町の再生した姿を一番見たいと思ったのも自分だし、もっと見たいと思っているのは亡くなった43人。最後までしっかり復興の姿を見せないといけないとずっと思ってきた」
震災から1、2年が過ぎたとき、娘に「きょうも寝ながら溺れていた」と指摘された。ガソリンスタンドの自動洗車機に車を入れ、水がかかってきたとき、パニックになった。町を訪れた精神科医に「PTSDになっている」と指摘され、初めて心に傷を負っていたことを自覚した。それでも歩みは止める理由にはならなかった。
過去の経験が“思い込み”に
南三陸町は1896年の明治三陸大津波、1933年の昭和三陸大津波、1960年のチリ地震津波など、たびたび津波で大きな被害を受けてきた。町は41人が犠牲となったチリ地震津波を教訓に、津波の高さ想定を5.5メートルに設定。毎年、避難訓練を続けてきた。その過去の経験が避難の足かせになった。佐藤町長も小学3年生のときにチリ地震津波を経験し、他の町民と同じく津波の高さは5.5メートルという思い込みがあった。
それでも、町長は町民と職員の命を守る責任者だ。防災対策庁舎で亡くなった職員の遺族からは町長の責任を問う声もあがった。
防災対策庁舎は残すべきか
防災対策庁舎の保存を巡っても、町民の意見は分かれた。教訓のため残すべきという人もいれば、つらい出来事を思い出したくないと話す人もいた。佐藤町長は2011年9月、遺族の心情を踏まえ解体する考えを示したが、町としての意見はまとまらなかった。2015年、見兼ねた県が一旦、県の所有とすることで議論の時間をつくることになった。
そして9年が経った2024年3月、佐藤町長は「未来の命を守るために必要」と判断し、庁舎の保存を表明した。年月が経つにつれ、保存に反対だった人も防災対策庁舎に来て手を合わせるなど、変化がみられるようになったからだ。もちろん、まだ防災対策庁舎の前に立てないという遺族もいる。そうした声も受け止めた上で、庁舎で被災した1人として、首長として、政治的に決断を下した。次の世代まで先送りはできない。ここで生き残った者の責任という思いもあった。
今だから話せる「本音」
震災後、南三陸町は「津波で二度と命を失わない町」を掲げ、3カ所の高台に住宅地を整備した。今では復興祈念公園や伝承施設、商店街も整備され、新たな街並みが広がる。
佐藤町長は東日本大震災の発生から1カ月後、「町は復興するか?」という問いかけに「もちろん。力強く宣言します。南三陸町は復活する」と断言していた。しかし、今はこの言葉が強がりだったと明かす。
「防災対策庁舎で被災して夜が明けて『昨日見たことは本当だったんだ』と確認した後に『本当に復興できるのか』と正直思った。ただ、言ったら職員も町民も意気消沈する。これはもう絶対言わない。だからやれると言うしかない。強がりはいっぱいあった」
背中を丸めないこと。失言をしないこと。
震災後はこの2つを肝に命じ復興のかじ取りを担ってきたという。
降りた“肩の荷” 復興の先へ
高台移転など復興事業の成果が目に見えてきた南三陸町は2018年、佐藤町長の指示で、支援を受けた団体をリスト化。特に貢献の大きかった226団体を佐藤町長が直接訪問し、感謝状を手渡した。“御礼行脚”を終えたとき「肩の荷が降りた」と感じたという。
この13年半を振り返れば、反省することもある。それでも前に進んできたのは“あの日”の体験があるからだ。防災対策庁舎で犠牲になった43人に誓った町の復興。強がりにすぎなかった言葉は、多くの人の力で現実となった。
「町民もプレイヤーの一員として、チーム南三陸として一緒にやっていきたい」
そう話す佐藤町長の目は、復興のその先を見据えていた。