高知市比島町の交通公園にあるSLが昭和天皇が乗ったお召し列車をけん引したものだったことが、高知さんさんテレビの取材で判明した。県などは新たな観光資源としての活用も検討している。そもそも、お召し列車にはどのような歴史的意義があるのだろう?

「非常に大きい」お召し列車の“政治的役割”

政治学者の原武史さん(明治学院大学名誉教授)は「明治時代になって、国家・政府が東京を中心とした鉄道網を作り上げていった」として、日本という近代国家の成立にお召し列車が果たした役割を強調する。

交通公園に展示されている『C58型蒸気機関車』
交通公園に展示されている『C58型蒸気機関車』
この記事の画像(7枚)

原武史さん:
毎年開催地が変わる陸軍の特別大演習などがあった時に、天皇の乗ったお召し列車が東京から全国、時には九州・東北まで行く。国家というものは非常に抽象的で、もちろん見えない。普段はほとんど意識しないかもしれませんが、お召し列車によって可視化される。

戦後に使われたお召し列車(当時の記録映像より)
戦後に使われたお召し列車(当時の記録映像より)

沿線では人々が1時間ほど前から所定の位置で整列し、列車を待ち構えたという。原さんは「通過した時には、一斉に最敬礼をする。それによって東京を中心とした日本という国家を人々が初めてありありと認識する。お召し列車が果たした政治的な役割は非常に大きいものがあったと思います」と話す。

マッカーサーが認めた“戦後巡幸”

交通公園にあるSLがお召し列車をけん引したのは1950年(昭和30年)。昭和天皇が戦後の復興状況を視察するため沖縄を除く全国を回った“戦後巡幸”で高知を訪れた際に使われた。

昭和21年から全国各地を訪れた昭和天皇
昭和21年から全国各地を訪れた昭和天皇

昭和天皇は戦前にも全国を回っていて、高知県には1922年(大正11年)、皇太子時代に訪れている。戦後巡幸の背景について、原さんは「列島をもう一度自ら回って国民を励ましたいという気持ちが昭和天皇にはあったようです。当時は日本は占領されていましたので、マッカーサーがそれを認めた」と説明する。

「日本を取り戻した」圧倒的な熱狂

敗戦によって全国が焦土と化していた中、昭和天皇を出迎えた人々のムードは「圧倒的な熱狂」だったという。

新憲法で“日本国の象徴”となった昭和天皇を国民は熱狂で迎えた
新憲法で“日本国の象徴”となった昭和天皇を国民は熱狂で迎えた

原武史さん:
確かに戦争に負けたんだけど、少なくともお召し列車だけはかつてと同じようにピカピカに磨き上げられていて、ダイヤ通りに寸分の狂いもなく走る。それを見た人たちが一瞬、現実を忘れて、戦前と同じような中に、日本を取り戻したみたいな、一瞬そういうものを味わった。もちろん幻想なんだけれども、その効果はすごく大きかった気がするんです。

“昭和”を知る貴重な資料

中学2年生の時に南国市で昭和天皇を歓迎した山岡きみ子さん(89)は「天皇陛下が来た時より、それまでに貧しい思いをした方がもっと記憶に残っている。戦争に負けた時はほっとした。みんな泣いているが、私ら子供はほっとした」と振り返る。

「天皇陛下が通る時はうつむいて、全然、顔を見ていない」という山岡さん
「天皇陛下が通る時はうつむいて、全然、顔を見ていない」という山岡さん

戦後巡幸での人々の熱狂ぶりについて原さんは「戦前と戦後の連続性を証明してしまった面もある」として、お召し列車は「戦前・戦後も含めた昭和という時代がどういう時代だったかを知る上で非常に貴重な資料」だという。

交通公園のSLは子供たちの遊び場になっている
交通公園のSLは子供たちの遊び場になっている

太平洋戦争などでは、日本人だけでも310万人が命を失った。戦後79年となった2024年、夏。高知は平和の祭典オリンピックでの県勢92年ぶりの金メダルに沸いた。私たち一人一人が歴史とどう向き合い、どんな未来を築いていくのか。忙しい日々の中で少し立ち止まり、“比島の交通公園”でお召し列車を眺める時間をつくるのもいいかもしれない。

(高知さんさんテレビ)

高知さんさんテレビ
高知さんさんテレビ

高知の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。