能登半島地震からの復興に向け前を向く人々に話を聞く「能登人を訪ねて」。石川県珠洲市の外浦では伝統の揚げ浜式製塩による塩作りが盛んだったが、能登半島地震で海岸が隆起し、景色は一変した。白い岩肌が新しい海岸線を作っているのがよくわかる。この自然豊かな珠洲で海の恵みを生かした塩づくり再開させた男性を訪ねた。
能登半島地震で甚大な被害もいち早く塩づくりを再開
この記事の画像(16枚)山岸順一さん88歳。揚げ浜式の塩づくりを行う「珠洲製塩」の社長だ。山岸さんは小学校の校長を務めあげ、定年後、父親が行っていた塩職人の道へと進んだ。
揚げ浜式製塩は能登に400年以上続く伝統の塩づくりだ。くみ上げた海水を砂地の塩田にまいて、天日干しし、塩分濃度を高めた「かん水」を窯で炊き上げることで、塩を作り出す製法だ。
能登半島地震でこの地域の海岸は大きく隆起し、道路は崩落、土砂崩れも発生し一時は孤立集落となった。山岸さんの自宅は、塩田から6キロほど離れている。地震を受け製塩所に駆けつけたが、残り3キロのところで土砂崩れで通行止め。山岸さんはそこから3キロ、隆起した海岸を歩いて塩田にたどり着いたという。本来なら10分ほどで着く塩田が、1時間ほどかかったそうだ。
製塩所中にあった機械が横倒しになり、棚も倒れていた。塩作りに必要な道具も下に落ちてしまっていた。
煙突も折れ曲がり全壊した場所も…それでも「大丈夫、再開しますよ」
煙突もくの字に曲がってしまっていた。山岸さんは、曲がった煙突を取り外し、新しいものを取り付けた。他の場所も、屋根が落ちたり、窯が壊れたりと全壊した場所もあったと言う。
それでも山岸さんは、塩作りを諦めなかった。その理由は、心配してくれるお客さんだ。「大丈夫、再開しますよ」というメッセージを早く送りたかった。毎日1時間、製塩所に通い2月には塩作りを再開したのだ。
白い岩肌のところ。地震が起きる前は海だった場所だ。山岸さんが測ったところ103メートルもあったと言う。これまではせいぜい20メートルほど先の海から海水を運んできたものが、100メートルも奥にいってしまったのだ。
隆起した海岸にも『めぶき』が…
取材した稲垣アナウンサーが気付いた事がある。そんな隆起した白い海岸に緑が見えたのだ。山岸さんは「自然の大きな力に翻弄されながらも、少しずつ再生していく。そんな努力をしている。残されたものは残された時間を力一杯生きるのがいいんじゃないか」と話していた。
そんな山岸さんのもとで働く男性がいる。珠洲製塩に入ってまだ2年目の真酒谷淳志さんだ。力仕事から販売まで幅広く担当している。
自宅が全壊し製塩所で住み込みながら塩づくり
輪島市内の自宅は全壊。仮設住宅からの通勤が難しいため、今は製塩所に住み込みで働いているそうだ。真酒谷さんが作業する場所は、塩田で作ったかん水を煮込んで、さらに塩分濃度を高くしていく工程の作業場。真酒谷さん、はじめに山岸さんの作業を見て覚えたあとは、自分でちょっとずつ調整しながら塩作りに励んでいるそうだ。揚げ浜式製塩の修行はだいたい15年といわれているそうだが、窯炊きに関しては一生なんだとか。真酒谷さんにとって、まだ正解の塩はできていない。
そんな真酒谷さんが作った貴重な塩をいただいた。
稲垣アナ:
いただきます。甘い。最初にしょっぱさが、そのあとふわっと甘みが広がりました。
真酒谷さん:
不純物が全部抜けきった塩なので甘く感じるんです。
山岸さんは語る。「昭和の初期の時代は、右を見ても左を見ても海水まきが同じような時間に一斉に始まっていた。そういうのを見て育っているので、この塩づくりを無くしてはいけない。地震で能登に注目した人が塩の良さを知ってくれただからこそ、この仕事に携わる人たちが頑張る必要があると思うのだ」と。
ピンチをチャンスに。脈々と続く伝統の揚げ浜式製塩を絶やさないためにも、山岸さんたちはきょうも塩を作っている。
(石川テレビ)