鹿児島・種子島出身で、太平洋戦争末期に27歳で戦死したの画学生・日高安典さんの「裸婦像」が、ひとりの映画監督の心をとらえた。戦争によって画家になる夢と、自らの命を断たれた日高さんの画学生としての時間、思いをたどる。
「絵は時間だ」無言館設立
長野・上田市、無言館に展示・所蔵されている約700点の絵は、太平洋戦争で戦死した画学生たちの作品だ。
この記事の画像(14枚)館主の窪島誠一郎さんは、全国を回って戦没画学生の絵を集め、1997年に無言館を設立した。
窪島さんは戦死した画学生たちにとって、「絵は時間だ」と語る。
戦地に向かうまでの残された時間を、彼らは絵を描くというただひとつのことにひたむきに向かい合っていたという。
日高安典さんの自画像と「裸婦像」
鹿児島県南種子町出身、日高安典さんの自画像も展示されていた。
日高さんは終戦4カ月前の昭和20年4月、陸軍兵士としてフィリピンで戦死した。27歳だった。
その自画像の横には、1枚の「裸婦像」がかけられている。
この裸婦像にはあるエピソードがあった。窪島さんによると、館内に置かれていた感想文ノートに、「安典さん、ようやく会いにきました」「自分を真剣に見つめていたあの日のことを忘れていません」と3行ほどの文章が書かれていたという。
書いたのは、裸婦像のモデルを務めた女性だった。
窪島さんは裸婦像について「日高さんとモデルとの間に流れていた時間。モデルの姿かたちではない」と作品の意義を強調した。
映画監督の心を揺さぶり映画化
窪島さんが語るエピソードに心を揺さぶられたのが、映画監督の五藤利弘さんだ。
「悲しい物語だなと感じた」という五藤さんは、日高さんとモデルの女性を巡るこのエピソードの映画化を目指している。
作品の前に立った五藤さんは、「強い意志を持って描かれているように見えた。どうしてこの絵を描いている時にこういう表情になったのかな。それを考えながらその時の2人の心情を探り当てられたら」と映画化への抱負を語った。
東京美術学校、現在の東京芸術大学の学生だった日高さんは、太平洋戦争が始まった昭和16年に繰り上げ卒業となり、翌年、徴兵された。
日高さんの他の作品が保管されている無言館の収蔵庫を見せてもらった。
徴兵を控えた日高さんが、卒業制作で描いたとされる自画像。他の自画像にあった穏やかさや生気がうかがえない。その自画像をみた五藤さんは、日高さんから希望がなくなり、目がうつろになったように感じた。
濃密な時間を過ごした画学生時代の日高さん
画学生だった日高さんはどのような日々を過ごしていたのか。
五藤さんは日高さんの心情に近づくため、日高さんが画学生時代に住んでいた東京・豊島区を訪れた。
当時の豊島区に詳しい学芸員の小林未央子さんが、日高さんの時代から今も残る
アトリエ付きの賃貸住宅を紹介してくれた。当時の画学生たちと、アトリエ付き賃貸住宅の写真だ。
縦に長い窓が取り付けられ、そこから大きな絵を出し入れしているが、この建物にもそれが残っていた。
小林さんによると、絵を出すためだけの扉で、建物がアトリエに特化したものであることの大きな特徴であるという。このようなアトリエ付き賃貸住宅が約150件建ち並んだ当時の豊島区は、「アトリエ村」、または多くの芸術家が活動したパリのモンパルナスになぞらえ、「池袋モンパルナス」とも呼ばれていた。
日高さんはここで、大好きな絵と向かい合える、濃密な時間を過ごしていた。
80年以上前に日高さんが歩いていたかもしれない道を歩きながら、五藤さんは日高さんの息遣いを感じ取ろうとしていた。日高さんがこの時代をどのように感じ、考えていたのかについて、「思いを膨らませられるような映画にしたい」と五藤さんは抱負を語った。
映画は2025年に撮影をスタートする予定だ。
戦争が奪ったもの
無言館に展示されている日高さんの作品「種子島風景」。
今から24年前、6歳年下の弟・稔典さんがこの絵について語った音声インタビューが残っている。
日高安典さんの弟・日高稔典さん(無言館ボイスライブラリーより)
「一緒に行って「ここはこうやって」「いや、ここを描こう」と時々歌っていた。絵を描きながら。母がおにぎりを作ってくれて、それを持って出るが「今日は飯食うのを忘れて、食わないで帰ってきた」と。描き始めたら飯を食うのを忘れるんでしょうね」
戦争は愛した場所で過ごす時間を、愛した人と触れ合う未来を、日高さんから奪った。
故郷から遠く離れた戦場で、永遠の眠りにつく瞬間、日高さんの胸に去来した思いは何だったのか、誰にもわからない。
ただ、日高さんが残した数々の絵は、今も無言館で言葉を発することなく、静かに存在し続けている。
(鹿児島テレビ)