小泉純一郎首相はじめての解散総選挙

2003年11月 自民党本部に到着した小泉純一郎首相(当時)
2003年11月 自民党本部に到着した小泉純一郎首相(当時)
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「なんでまだ来ないんだ!」
平成15年(2003年)11月9日の日曜日午後3時過ぎ、開票速報の特別番組の放送開始までまだ5時間近くあるのに、フジテレビ選挙スタジオの判定デスク席では罵声が飛び交っていた。

今日は小泉純一郎首相による初めての解散総選挙の日。
事前の予想で自民党は議席を増やすだろうとみられていた。
罵声の理由は出口調査のデータが予定通り入って来ないことだった。
システムトラブルらしい。
全国28万サンプル中、この時点で来ていたのは4万サンプルだけ。
これでは議席予測はできない。

僕はこの時43歳。政治デスクで選挙本部事務局長を兼務していた。
議席予測の責任者である。
3時半過ぎに合同で調査をしていた共同通信から「最終的に20万サンプルは送れる」という連絡が来たので、予測できるかできないか、もう少し待つことにした。

それに4万サンプルとは言え、実は全体の流れは大体見えていた。
1週間前に行った電話による世論調査の結果とは違い、自民は伸び悩んでおり、単独過半数の241議席を割り込むのは確実な情勢だったのだ。午後5時になって届いたサンプル数が10万近くになった。
この時点で「出口調査を予測の判定材料に使用可能」と判断し、議席予測を開始した。

出口調査は使い方を間違えると劇薬

 
 

予測の判定材料は出口調査が最も大きな割合を占めるがそれだけではない。他にも1週間、2週間前に電話で行われる世論調査、記者による選挙区取材、政党や支援団体からの情報などがある。特に今回の特徴は、出口調査に反映されない不在者投票(現在は期日前投票)が、初めて1割を超え、700万票に達したことと、自公の選挙協力が、これも初めてうまくいったことだった。

しかも今回は投票率が低い。だから「出口調査を信用すると間違うぞ」とある人から言われていた。実際に出口調査の取り扱いを間違えたことによる、議席予測のトラブルは海外で何度か起きている。

出口調査発祥の地、米国では2000年の大統領選挙で、フロリダ州の出口調査が大接戦であったにもかかわらず、テレビは民主党のゴア勝利と打ち、その後「判定不能」に差し替えた。しかしその後開票が進むと今度は共和党のブッシュ勝利と打ち、さらにそれを取り消すという、前代未聞のダブルミスを犯した。

韓国では3つのテレビ局が2度続けて総選挙で与野党の議席を逆に予測してしまい、翌日謝罪の放送をして、国会でも大きな問題になった。

選挙の神様の存在

出口調査はよく当たるが、使い方を間違えると大やけどをする劇薬、というのが当時の「予測屋」の常識だった。出口調査を信じるな、と僕に言った人はある団体の職員で、僕が「選挙の議席予測」という世界に入って以来、ずっと教えを乞うている人だった。彼のことをひそかに「選挙の神様」と呼んでいた。「神様」の予測は必ず当たるのだ。

投票1週間前にテレビ、新聞各社が行った電話世論調査による議席予測は、自民党は過半数の241、解散時勢力の247のいずれも超え、安定多数の252に迫るというものだった。

しかし「神様」は「そんなには勝てないよ」と言っていた。
「自民党はそこまで地力がついてない」と言うのだ。
2001年4月に小泉さんは政権を取り、7月の参院選は小泉人気で64議席を取って自民は復調した。翌02年9月には訪朝して拉致被害者5人を奪還、その約1年後、03年11月の衆議院選挙であった。あまり負ける要素はないように見えた。

しかし出口調査を見た時は驚いた。
生数字だけで計算すると自民の議席は220を割ってしまう。
ただ「神様」は「小選挙区は自民党候補者に公明票が相当入る」と繰り返し言っていた。
この言葉を信じて各ブロックの判定担当には、「出口調査にだまされるな。公明票が隠れてるぞ」と言って回った。

議席予測のプレッシャー

2003年11月衆議院選挙で当確の花付けをする安倍幹事長(当時)
2003年11月衆議院選挙で当確の花付けをする安倍幹事長(当時)

そして午後7時過ぎ、フジ系列の100人近い判定担当者が、300小選挙区と11比例区を1議席ずつチェックして予測し、その議席を積み上げた数字は自民233、民主180であった。自民は単独過半数を割るから、負けは負けだが、連立相手の公明、保守を加えると270となり、与党で絶対安定多数を確保できる。政権は維持できたのだ。政局は動かない。8時の議席予測はこれで行くことにした。

投票締め切りの午後8時、民放テレビ各局の政治部は、まさに死力を尽くして議席予測を出す。間違えることは絶対に許されない。当確打ちも大変だが議席予測のプレッシャーの比ではない。8時前後は胃がキリキリと痛む。

午後8時、テレビを見て驚いた。各社自民の数字が低い。ウチが233で一番高く、TBSが230、テレ東224、日テレは221、テレ朝は220とずいぶん低いではないか。逆に民主はウチが180で一番低く、TBSは188、テレ東193、テレ朝193、日テレに至っては205と出している。

もし日テレの予測「自民221、民主205」が当たりなら大政局になる。案の定、日テレに出演した民主の菅直人代表が、公明との連立交渉に言及し、ニュース速報が出た。確かに民主と公明が組めば過半数に近づき、政権交代もありうる。ただし日テレの予測が正しければだが。

当時の民主党の菅直人代表(左)と公明党の神崎武法党首(右)
当時の民主党の菅直人代表(左)と公明党の神崎武法党首(右)

フジテレビだけ予測を外すという恐怖

政治部長が走って来た。
「おい大丈夫か、うちだけ自民が低いな」という。
胃が痛くなってきた。ウチだけ予測を外してしまったらマズイ。翌日のスポーツ紙の見出しが頭をよぎる。

「フジ予測外して赤っ恥」。
スポーツ紙や週刊誌はテレビ局が失敗すると大喜びするのだ。

しかしそこに朗報が入った。
「神様」から電話で「自民はそれくらいかもっと上だと思う」というのだ。
部長に「神様が大丈夫だって言ってる」と伝えたら、「そうか」と笑ったがまだ心配そうだ。

それから2時間くらいは針のムシロだった。番組のプロデューサーからは「政権交代はないのか」という問い合わせが何度も来たが、今さら予測を変えることもできずじっと耐えていた。

10時過ぎぐらいだったろうか。出口調査の接戦区で民主に負けていた自民候補の勝ちがポツポツと出始めた。そしてあろうことか、日テレが議席予測を修正した。自民を増やし、民主を減らしたのだ。

よし!
一人で小さくガッツポーズした。

小泉さんの選挙成績は2勝2敗

最終的に自民は我々の予測よりさらに4つ伸ばして237議席、一方の民主は3つ下回る177であった。各社とも出口調査を重視しすぎたのが間違った原因であろう。フジテレビだけがかろうじて合格点だった。

その後、出口調査は期日前調査でも行われるようになり正確性を増した。今では出口調査の生数字を番組で出すこともある。フジの特番は視聴率も一番だったので、僕とプロデューサーの二人は共同で報道局長賞をもらった。

フジの特番に出演した人が翌日のラジオ番組に出た時、「フジの予測だけ当たりましたね」と司会に聞かれ、「フジには選挙の神様がいるから」と答えたので、僕は「選挙の神様」と呼ばれることになった。

神様は僕じゃないのに、と思ったが、まあいいじゃないか!生まれて初めて人に神様と呼ばれるのは楽しかったので、本当の神様には申し訳ないがそのまま呼ばれることにした。結局僕は議席予測という辛い仕事を5年もやらされ、衆参4回の選挙で予測をした。

2001年7月参議院通常選挙で自民党が大勝
2001年7月参議院通常選挙で自民党が大勝

いずれも首相は小泉さんだったが、勝ったのは就任直後の01年の参院選と、05年の郵政解散の衆院選の2回。03年の衆院選は負け、04年の参院選も49議席しか取れず、負け。小泉さんの選挙成績は2勝2敗で、実はそれほど強かったわけではなかった。

就任の時の総裁選と郵政解散の大勝利のインパクトが強すぎて、選挙に強い小泉というイメージが出来上がったのかもしれない。

当時の民主党の菅直人代表(左)と自由党の小沢一郎党首(右)
当時の民主党の菅直人代表(左)と自由党の小沢一郎党首(右)

今の安倍一強と比べると不思議な気もするが、当時は野党の民主党が自由党と合併して2大政党制がようやく出来上がり、野党に対する国民の期待が大きかった。今の野党はバラバラでだらしないなどと批判されるが、きちんとまとまれば、自民党政権を倒す力は持てると思う。

議席予測の話に戻ると、選挙のたびに神経がすり減った。いい加減嫌になっていたところでようやく人事異動があり、別のポストに移ることになった。もう議席予測しなくていいんだ、と思うと、その解放感にスキップをしたくなるような思いだった。だが意外なことにそれ以降、選挙がつまらなくなってしまった。

政治部長として当確判定の最終責任者をやったり、あるいはコメンテーターとして選挙特番に出たこともある。でもあの議席予測のようなヒリヒリした緊張感は2度と味わえなかった。

【執筆:フジテレビ 解説委員 平井文夫】
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平井文夫
平井文夫

言わねばならぬことを言う。神は細部に宿る。
フジテレビ報道局上席解説委員。1959年長崎市生まれ。82年フジテレビ入社。ワシントン特派員、編集長、政治部長、専任局長、「新報道2001」キャスター等を経て現職。