終戦直前、日本海軍は船で体当たりする特攻艇部隊を作った。
人間兵器とも呼ばれた船「震洋」の基地跡が宮城県東松島市宮戸島にあった。

「こんなもので戦えるのか」とがく然

宮城・東松島市に住み、地元の歴史を研究している石垣好春さん 67歳。
長年、小学校の教師として勤めてきた石垣さん。
宮戸小学校で教えたあと、地域にある戦争遺跡に興味を持ち、研究を続けてきた。

石垣好春さん(67):
戦争の末期といいますかね。1944年の6月ころから海軍の特攻兵器として作られたモーターボート。基本的にベニヤ板で作ってある

石垣好春さん(67):
片道切符ですから、帰って来られない。途中で海に逃げ出すとか、飛び込むことはできない。モーターボートなので、相手にぶつかるためには最後まで操縦しないといけないように作られていた

モーターボートの資料も残されている。

宮戸島に基地があった特攻艇「震洋」は、人間兵器とも呼ばれていた。
資材が不足した日本軍が、ベニヤ板や自動車から転用したガソリンエンジンで作った即席の兵器。
船の先端に250kgの爆弾を積んで、敵軍に突撃する。非常に簡素な造りだった。

石垣好春さん(67):
宮戸に展開した(部隊の)宮澤隊長が、初めてこの震洋を見た時に「こんなもので戦えるのか」と、がく然としたと話している。幼稚な特攻兵器だったと言えると思う

太平洋戦争末期、全国各地に配備された震洋の部隊。
宮戸島には、その中でも最後の146番目の部隊が置かれた。

今も残る「震洋の基地跡」

石垣さんに、震洋の基地跡へ案内してもらった。向かうのは宮戸島にある旧鮫ケ浦漁港。
室浜漁港の北西側、潜ケ浦に車を止め、ここからは歩いて向かう。
歩き出すとすぐに、基地を作るために掘られたトンネルが見えてくる。中へと進むと…

石垣好春さん(67):
壁を見てわかると思うが、ツルハシで掘っています。重機がないので突貫工事でやったんですよね

突貫工事で作られたトンネルだが、幾度の地震にも耐え、今も当時のまま残されている。その長さは60メートル。

石垣好春さん(67):
地震で崩れている所が全国的にはありますから。危険なので封鎖しているところもある。こういう風に私たちが自由に動けるという意味では貴重な場所だと思う

このトンネルを抜け、100メートルほど歩くといよいよ基地跡が見えてくる。

石垣好春さん(67):
ここが震洋の格納壕です。ここに震洋を隠しておく。右側に8本、向かい側に3本で11本。いざという時に、ここから浜を通して海に出撃していくという態勢になっていた

当時のままの姿で残る、格納壕。
6メートルほどのモーターボートを出し入れできる広さがある。

しかし、ここに震洋が格納されることはなかった。
基地が整備され、部隊も結成されたが、震洋が配備される直前に終戦を迎えた。
結果、搭乗員49人は助かった。

一方で、終戦直前に奪われた命もある。
1945年8月9日。宮戸島で3人の子どもとその母親が空襲の犠牲となった。
その日には、同じく海軍の特攻部隊が置かれた女川町などでも空襲があり、多くの命が失われた。

戦争遺跡を守って歴史を伝えていく

石垣好春さん(67):
本土決戦に向けて、多くの若者が特攻作戦で命を亡くしている。幸いここは終戦になって、そういうことはないが、半年・1年(終戦が)遅れてしまったら、ここでも沖縄のような悲惨な状況が展開されていたと思う。
戦争体験世代が2割を切っていますし、あともう5・6年経てば戦争のことを語れる人はいなくなると思いますね。このような戦争遺跡や物に戦争を語らせるほかなくなる。これをみんなで守っていければと思う。

震洋の搭乗員は、もともと飛行機に乗るために養成されていた17、18歳の少年。
飛行機も作れない状態になって、急きょ 2カ月ほど船に乗る訓練を受けて、各地に配備された。
全国で見ると、多くの少年が実際に突撃をして、命を失っている事実も忘れてはいけない。

(仙台放送)