シベリア抑留で亡くなった戦友を迎えに

終戦後、旧ソ連によるシベリア抑留では、5万人を超える日本人が命を落とした。宮城・仙台在住の男性が戦争の理不尽さを伝えたいと当時の様子を証言してくれた。

ロシアの極東、シベリアの街外れに残された松の切り株。
この松の周りの永久凍土に多くの日本人が眠っていたことを今に伝える人がいる。

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シベリアに抑留された・庄子英吾さん(93):
230人の(戦友の)うち、83人が亡くなったの。3分の1

庄子英吾さん、93歳。
庄子さんは、自らの手で、亡くなった戦友をこの場所に埋めた。

庄子さんの手記:
凍った遺体は車から滑り落ちやすく何度も落ちる。そのたびに拾い上げデコボコ道を苦労してようやく墓地にたどり着く。そこに一本の大きな落葉松が立っており「一本松墓地」と言われていた

庄子さんは戦時中、満州の軍官学校に入校。

ソ連の進撃に備えるため、労働と戦闘訓練の毎日を過ごしていた1945年、終戦を迎えた。
終戦直後、ソ連軍は庄子さんたちに日本に帰国させるという意味である「トウキョウ・ダモイ」と告げた。
ところが、列車に乗せられたどり着いた先は、日本ではなく極寒の地・シベリアだった。

シベリアに抑留された・庄子英吾さん(93):
零下40度でしょ。寒いというより痛いという感じですね

庄子さんたちが送られたのは、ブカチャーチャという町の強制収容所。
この場所にある炭鉱で過酷な労働を強いられた。

庄子さんの手記:
悲劇が始まった。衣食住、全てが最悪だった。家畜に食わせるスープと黒パンが1つだけ。次第に栄養失調になり、次から次へと倒れた。さらに発疹チフスが蔓延。1日に18人も死んだ日があった

ーーふるさとに帰れると思ったのに、帰れないでシベリアという土地で亡くなってしまったんですよね?

シベリアに抑留された・庄子英吾さん(93):
だからみんなね、死ぬ時、「お母さん、お母さん」って(言って)死んだよ

庄子さんも発疹チフスに感染し、10日間、生死の間をさまよったそう。
奇跡的に回復したあと、庄子さんに課せられた仕事は、亡くなった戦友の遺体を埋葬することだった。

庄子さんの手記:
埋葬しようとスコップで穴を掘ろうとするが地面は凍土となり全然歯が立たない。仕方ないからそこに遺体を置き、辺りの雪をかき集め、遺体にかぶせて終わらせた

終戦から3年後、シベリア抑留生活がようやく終わりを告げた。
シベリアを離れる時、庄子さんは自らの手で埋葬した戦友に向け、「必ず迎えに来る」と誓ったそう。

それから40年後の1991年、ソ連の崩壊に伴い、シベリア抑留日本人の遺骨収集作業が始まった。庄子さんは、抑留経験者としてこれに参加。

シベリアに抑留された・庄子英吾さん(93):
必ず迎えに行くよと約束したからね。その約束を果たすために、行ったんですよ

遺体を埋めた場所の目印はあの、一本松。
すでに切り株になっていたが、その周りを掘ると自らが埋めた戦友が眠っていた。

シベリアに抑留された・庄子英吾さん(93):
40年間我慢させて、40年間遅くなってごめんねと、40年間待たせて悪かったなと言ったよ

厚生労働省によると、庄子さんのようにシベリアに抑留された日本人は約57万5,000人。
その内、5万5,000人が日本に帰れず亡くなったとされているが、詳細はいまだにわかっていない。

記憶をたどりながら、自らの戦争体験を明かしてくれた庄子さん。
取材の最後、この言葉を何度も繰り返しながら伝えてくれた。

シベリアに抑留された・庄子英吾さん(93):
絶対に戦争を起こしてはならない。戦争は起こしてはならない。戦争は絶対に起こしてはならない

(仙台放送)

仙台放送
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