沖縄戦前年の1944年、サイパンやテニアンなど南洋群島と呼ばれる島々では、住民を巻き込んだ壮絶な地上戦が繰り広げられ、現地で暮らしていた沖縄県出身者など約1万2000人が犠牲となり、「もうひとつの沖縄戦」とも言われています。

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上運天賢盛(かみうんてん けんせい)さんは、当時12歳で地獄のような戦場をさまよいました。

空気が変わったのは真珠湾攻撃後

サイパンやテニアンなど南洋群島と呼ばれた島々には新天地を求めて多くの沖縄県出身者が移り住み、上運天さん一家も親戚と共に農業で生計を立てていた。

1931年にサイパンで生まれた上運天賢盛さんは、戦前の島での暮らしについて「平和そのもので楽園だった」と話す。

島の空気が変わったのは、真珠湾攻撃が起きてから。

日本軍は連合軍との戦闘に備え南洋群島に部隊を配置、平和だった島は次第に物々しい雰囲気になっていった。

上運天さんが通った小学校では、日本軍の兵士が教壇に立つようになった。

上運天賢盛さん:
体操(体育)の時間の半分は海で泳ぐわけだよ。平泳ぎやいろんな泳ぎではなく最初はね、海に浮かぶことを教えてきた。後で聞いたら、(乗った)船がもし、アメリカの潜水艦にやられて沈んだら、助けが来るまでにはかなり時間がかかるから

追い詰められ自ら死を選ぶ住民

1944年6月、アメリカ軍はサイパン島に上陸、地上戦が始まった。

家族がばらばらに逃げたほうが生き残る確率が高いからと、上運天さんは同年代のいとこ2人と行動するように言われた。

上運天賢盛さん:                                                     米軍に捕まれば、子どもは船に乗せられ沖に連れて行かれ、ボンボンと投げられ射撃の訓練にされ、死んだらサメの餌食にされる。そして、若い女性はおもちゃにされて、使われなくなったら牛馬に手足を縛って、体を八つ裂きにしてしまうと教えられていた

逃げ場のない島で戦況が悪化していくなか、追い詰められて自ら死を選ぶ住民の姿も目にした。

それはアメリカ軍の艦砲射撃が一時的に止んだわずかな時間だったという

上運天賢盛さん:
静かになったときにおばあちゃんと子ども3人が出てきて、おばあちゃんが包丁かカマか何かで子どもたちののどを掻(か)き切って、崖に突き落としていくんだよね。最後に、このおばあちゃんは自分の首を切って、自分も飛び込んでいくわけなんだ

それに続いて5、6人が泣きながら断崖から身を投げた。しかし、次第に恐怖は感じなくなっていったという。

上運天賢盛さん:
怖いっていう感じはあったんだろうけども、死体を見ても何とも思わなかったね。悲しいとか怖いとか、転がっている死体を見ても、いずれ私もこうなるんだろうなとしか思わなかったからね

戦後、南洋群島で慰霊祭を企画

戦場を逃げまどうなか、一緒にいたいとこも爆撃で命を落とし、上運天さんはアメリカ軍の投降の呼びかけに応じ捕虜となった。

父や2人の姉、いとこや叔父、叔母など多くの親族を失った。

戦後、遺族などでつくる「南洋群島帰還者会」に参加し、現地で戦死した兄の遺骨を持ち帰った。その後は会長として現地の慰霊祭を取り仕切った。

南洋群島帰還者会は2019年を最後に組織としての墓参を終了し、現在は有志がツアーを組んで現地での慰霊を続けている。

93歳の上運天さんは家族の付き添いなしでの旅は難しいと判断し、2024年の参加を見送った。

上運天賢盛さん:
そちらに行って、御霊を慰めてください。体調を十分にして、そして地域の住民と交わりを深めていただきたい

故郷に戻ることなく犠牲となった大切な人たちへの思いは変わらない。

戦争へと向かったあの頃を知っているからこそ

上運天さんはいま、再び戦争の気配を感じると話す。

アメリカ軍機が飛び交う日常に加え、政府が台湾有事などを理由に沖縄への自衛隊配備を推し進める様が、あの頃と重なるのだという。

上運天賢盛さん:
また軍国主義になるのかなと。話し合いで平和に解決することが実現できたらいいんだけども
できるだけ戦争体験者や年寄りの言葉を聞いてほしいっていうことだね。もうそれ以外、説得の方法はないんじゃないかな

社会の空気が少しずつ戦争へと向かったあの頃を知っているからこそ、おかしいと感じた時に勇気をもって声を上げてほしいと話す。

上運天賢盛さん:
止める勇気っていうものが大変だと思うんだ。言葉では簡単に言うけども、実行するとなってくると難しいよね

南洋群島の悲劇から80年、当時の記憶が鮮明な体験者も多くない。上運天さんは自らの体験を語り、平和がいかに尊いものかを訴えている。

(沖縄テレビ)

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