静岡県で唯一の屋内スケートリンクが電気代の高騰など理由に閉館した。58年にわたって地域の人たちの愛され、オリンピックに3回出場したスピードスケートの選手もこのリンクで育った。元五輪選手は「寂しい。まだ信じられない」と別れを惜しむ。
老朽化と電気代高騰で…
この記事の画像(15枚)1966年、浜松市にオープンした屋内スケートリンク「浜松スポーツセンター」は、「浜スポリンク」の愛称で地域の人たちやスケートファンから親しまれてきた。
2024年まで58年間営業を続けてきたが、5月31日、その歴史に幕を下ろした。
電気代の高騰と施設の老朽化が主な理由で、スケートリンクの心臓とも言える製氷機は、58年の歳月を経てボロボロの状態だ。
「閉館」という苦渋の決断をした浜松スポーツセンター・鈴木直樹 社長は「ここ数年で電気代が相当高騰して、同じ使用量でも電気代が2~3倍もかかるような状況の中で決断せざるをえなかった」と明かす。
最後の一般開放日に700人
一般利用客にリンクを開放する最後の日となった5月16日には開館前から大勢の人が並んだ。
この日は県内外から普段の倍となる約700人が訪れ、最後のスケートを楽しんだ。
このリンクでスケートを習ったという男の子は「やっとうまく滑れるようになってきたから、そのタイミングでなくなってしまうのは残念」と話す。
中には、京都から訪れた人もいて「自分がスケートを始めるきっかけになったリンクなので、それが閉館してしまうのは寂しい」と残念がる。
30年以上も通い続けた常連客の前島節さんは、リンクで出会った仲間たちにお別れをしようとアルバムを持ってやってきた。前島さんは「思い出はここにある写真。これだけの人と知り合って、もうみんな結婚している。毎週日曜日はここで滑っていたので寂しい」と、スケートを通して思い出を共にした仲間たちとの最後の滑りを楽しんだ。
元五輪選手「まだ信じられない」
このリンクはオリンピック選手も輩出している。
浜松市出身でスピードスケート元日本代表の伊藤亜由子さんだ。伊藤さんはショートトラックで2010年バンクーバー、2014年ソチ、2018年平昌と三度のオリンピックに出場した。
この日、伊藤さんは家族と訪れスケートを楽しんでいた。
スピードスケート元日本代表・伊藤亜由子さん:
私がスケートを始めたきっかけになったリンクなので、私の原点、私の返ってくる場所というイメージです。やっぱ寂しいですね。まだ信じられない感じです
製氷機に「ありがとう」
そして、5月31日には最後の営業の日を迎えた。この日は、これまでこのリンクで活動を続けてきたフィギアスケートやアイスホッケーのクラブの貸し切りとなった。子供たちは「最後にみんなで楽しい思い出がつくれた」と喜ぶ。
フィギアスケートコーチの竹下誠司さんは「今までも選手の出会いと別れは何回か経験してきたが、今までの見送りとは違う形で、いつも以上に寂しい気持ちになる。これでまた会えない期間が長くなる選手もいるので」と話す。
思い出のリンクとの最後の時間はあっという間に過ぎ、58年間使用してきた製氷機も止められた。
製氷機は毎年スケートシーズンが終わる夏に止めてはいるものの、この日は特別だ。浜松スポーツセンター・中村和樹さんは「同じ止める作業でも重さが違う。これでもう製氷機が動くことはない。本当にありがとうございました」と、特別な思いでスイッチを切った。
照明も落とされ、58年間続いたスケートリンクの営業は終了した。
新リンク設置めざし署名活動
練習場所を失ったフィギアスケートやアイスホッケーのクラブチームは、隣の愛知県などに拠点を移さなければならない。このため静岡県内での新しいリンク設置を目指して署名活動を始めた。
署名に応じた人たちは「息子も小さな頃からフットサルを続けて選手になったので、ちゃんと練習場があれば立派な選手になれると思う」「スケートリンクがなくなるのはかわいそうなので」と思いやる。
ある女の子は「いろいろな人が私たちの気持ちをわかってくれてすごくうれしい」と喜び、浜松パイレーツホッケークラブ・名倉みほさんは「静岡県にスケート場ができて、新しいスケート場で子供たちがたくさんスケートを滑れるようになるといいな」と期待する。
集まった署名は7月に浜松市へ提出し、リンク設置を働き掛けていく。
58年間にわたり、静岡県内のスケート文化を支えてきた浜スポリンク。その楽しい思い出は、新しいスケート文化をはぐくむ糧となっていくはずだ。
(テレビ静岡)