中国と米国のいざこざは様々な分野に及ぶが、最近注目を集めたのは、人気の動画投稿アプリ「TiKTok」について、運営会社が中国企業であり、データの中国政府への流出が深刻な安全保障上の脅威となりうるとして、米連邦議会下院が3月13日に「TikTok」の米国内での事業を中国以外の企業に売却を求める法案を可決したことだ。拒否すればアプリの使用を禁止するという内容だ。
この記事の画像(27枚)この後、上院での審議もあり最終的にはまだ決まったわけではないが、中国外務省の汪文斌報道官は、「TikTokが国家安全保障を脅かすという証拠は見つかっていない」にもかかわらず、アメリカが「TikTokを弾圧している」(BBC・3月14日付)と非難した。
米連邦議会下院がTikTokにまで安全保障上の脅威と位置付ける法案を可決する前、3月7日、中国の最高指導者、習近平国家主席は、第14回全国人民代表大会・第2回会議の人民解放軍・武装警察代表団の全体会議で「戦略能力の向上に焦点を当てた重要な演説を行った」(中国・新華社/新華網・3月7日付)という。
具体的には「海洋軍事闘争の準備、海洋権益の保護、海洋経済の発展を調整し、海洋管理能力を向上し…中国の航空宇宙システムの構築を推進する必要がある。サイバー空間の防衛システムを構築し、国家ネットワークの安全性を維持する能力を向上させる必要がある。主要なスマートテクノロジープロジェクトの全体的な計画と実施を強化し、先進的な成果の応用を増やす必要がある」(同上)というのである。このような方針の下で、TikTokが中国政府にとってどのような位置づけになるのか、ならないのかは不明だが、他にも気になる分野があった。
全体として、多様な分野への「戦略能力を向上」を打ち出していたというわけだが、なかでも「海洋軍事闘争の準備」というのは、まるで中国の海洋進出戦略とされるA2AD(接近阻止・領域拒否)を改めて強化しつつ、「海洋管理能力を向上」させる方針を打ち出したようにもみえる。
習近平主席が「海洋軍事闘争の準備」と発言した2日前の3月5日、英BBCは、中国・自然資源部の海洋調査船「向陽紅3号」が、近くインドの南西に位置するモルディブ共和国に寄港する予定であり、この寄港は、公式には「人員の交替と補給のため」という無害寄港であるはずにも関わらず「モルディブ寄港がインドとの緊張を煽っている」と報じた。
それは、なぜなのか。
中国にとって気掛かりなインドの戦略兵器能力向上
向陽紅3号は、「海底調査を行う能力」(INDIA TODAY・3月12日付)を持ち、「最悪の場合、それは、後日中国軍が潜水艦作戦で使用する可能性のあるデータを収集する任務になる可能性も」(BBC・3月5日付)というのである。
そうであるならば、中国の海洋調査船の活動は「海洋軍事闘争の準備」「海洋管理能力を向上」することにつながるのだろうか。
習近平主席が「海洋軍事闘争の準備」という言葉を口にした3月7日、インド政府は、3月11日から16日にかけて、インド軍のミサイル試験場があるとされるベンガル湾に面したAbdul Kalam島を起点とし、インド洋の南方向に向け、約3550kmのエリアにNOTAMを設定した。
すると、中国の別の海洋調査船「向陽紅1号」が、インドが設定したNOTAMのエリアに入っていたという。(INDIA TODAY・3月12日付)
インドが事実上の飛行制限区域設定を意味するNOTAMを出したのは、何らかのミサイルの発射試験のためであると考えられたが、インド政府は3月11日、MIRV(複数個別誘導再突入体)を搭載したインド国産のICBM、アグニ-5型の発射試験に成功したと発表した。
MIRVは、1発の弾道ミサイルに複数の弾頭を搭載し、個々の弾頭が別々の標的を狙うというものだ。
インドのモディ首相は、X(旧ツイッター)に「MIRV化したアグニ-5開発に関わったDRDOの関係者や技術者を誇りに思う」と投稿し、MIRV化したアグニ-5大陸間弾道ミサイル発射試験成功に貢献したDRDO(インド防衛研究開発機構)の関係者や技術者をたたえた。
Proud of our DRDO scientists for Mission Divyastra, the first flight test of indigenously developed Agni-5 missile with Multiple Independently Targetable Re-entry Vehicle (MIRV) technology.
— Narendra Modi (@narendramodi) March 11, 2024
アグニ-5ミサイルは、2012年に初めての試験発射に成功。DRDOが2015年の発射試験の映像を、SNSを通じて公開したものである。
射程5000kmとされるアグニ-5ミサイルの2021年10月27日の試験では、当時のインド政府は「非常に高い精度」でベンガル湾に落下したと発表。「先制使用禁止の約束を裏付ける信頼できる最小限の抑止力を持つというインドの政策」に沿ったものと評価していた。
初の発射試験から9年の時を経て、アグニ-5はMIRV化の試験を実施したわけで、「最大飛距離3000マイル(約4828km)だったが、この試験では3個のMIRVが2000マイル(約3200km)以上の距離に展開した」(米ニューズウィーク・3月12日付)という。
このアグニ-5の開発にかつて関わっていた関係者によると、「『マザーミサイル内のベビーミサイル』には、それぞれ独自の誘導・制御システムが装備されており、主要目標地点の約200~250マイル(約320~400km)上空で投射され、独立した目標を攻撃できる」(米ニューズウィーク・3月12日付)という。
つまり、「各MIRV は精密標的戦術兵器として機能する」、しかも「3段式アグニ-5ミサイルのノーズコーンを改良することで、超小型核、小型核、さらには大型の熱核兵器を含むさまざまな弾頭を搭載できる」というのである。(米ニューズウィーク・3月12日付)
さらに、アグニ-5ミサイルの推定射程は「3100マイル~4900マイル(約5000~7900km)」(同上)とされていて、インドがかつて戦争を繰り返した相手であるパキスタンを射程とする短距離ミサイルではなく、長距離ミサイルであるアグニ-5大陸間弾道ミサイルのMIRV化等の性能強化を図る理由については、「アグニ-5は主に中国に対する抑止を目的としている。これはその射程からも明らかだ」(米ニューズウィーク・3月12日付)との分析もある。従って、インドのアグニ-5MIRV化試験は「中国との潜在的な戦争のため、ゲームチェンジャーとなる兵器を試験」した(同上)との見方も有力だ。
インドと中国の間では、2020年に国境紛争があり、2022年12月9日にも、インド北東部で両国の軍隊が衝突している。
ちなみに、前述の中国の海洋調査船「向陽紅1号」は、アグニ-5の発射試験が行われた頃、「インド近海に派遣されていた。この船は、ヴィシャカパトナム沖合260海里(約416km)未満で、ミサイルの射程と能力に関するデータを収集していると考えられている」(インド・エコノミックタイムズ・3月12日付)という。
これが正しければ、中国側もまさにMIRV化し、高性能化するアグニ-5ミサイルを意識せざるを得なかったということかもしれない。
ところで、冒頭で紹介した習近平主席の「海洋軍事闘争の準備」「海洋管理能力を向上」という言葉は、習主席や中国首脳部が最近のどんな事態に着目して生まれた言葉なのだろうか。断定はできないが、2024年に入って注目されるのは、従来とはかなり様相の異なる海上戦闘があったことである。ウクライナ対ロシアの洋上戦闘である。
極東情勢をも揺るがすウクライナ海軍の非対称海上戦闘と戦術
ウクライナ軍は2024年1月31日、ロシア黒海艦隊の満載排水量・540トンのタランチュルIII級ミサイル・コルベット「イヴァノヴェッツ」を沈没させた。
ちなみに、ウクライナ海軍は2024年2月現在、軍人が搭乗する軍艦を事実上1隻も運用していない。
ウクライナ軍は2月14日には、満載排水量・4012トンのロプチャ級強襲揚陸艦「シーザー・クニコフ」を沈めた。
さらに、3月5日、1300トンのBYKOV級(プロジェクト22160)コルベット、セルゲイ・コトフ(SERGEI KOTOV:383)の「艦尾、右側、左側」を、ウクライナ軍は破壊した。これらのロシア黒海艦隊の軍艦に対する攻撃は、ウクライナ海軍のわずか全備重量最大1トンの無人攻撃艇(USV)マグラ V5によるものだったと、ウクライナ軍は発表した。
マグラV5は、全長5.5m、全幅1.5m、水上0.5mという小型のUSVで、巡航速度:22ノット(40km/h)、最高速度:42ノット(80km/h)、ペイロードは320kg(爆発物なら300~320kg搭載可能とも)で、航続距離は、約833kmとされる。
巨大な軍艦が、立て続けにこのような小型の無人攻撃艇(USV)によって沈められ、破壊されたのである。
米軍が検討する“地獄絵図”構想
スタブリディ元NATO欧州連合軍最高司令官(米海軍退役大将)は、「このことはおそらく黒海紛争の最も重要な教訓につながる。それは、水上艦艇(駆逐艦、巡洋艦、さらには巨大な米空母でさえも)は現在、機敏な無人(機・艇)攻撃に対して非常に脆弱であるということだ」(ブルームバーグ・3月3日付)と評価した。
ウクライナ海軍のマグラV5がロシア黒海艦隊に対して成果をあげる前、2023年の時点で「米インド太平洋軍内の新たな作戦構想は、中国が台湾を侵略しようとした場合、ドローンの大群を使って台湾海峡を『Hellscape(地獄絵図)』に変えることを提案している…そのビジョンを実現するために、米国防総省は、中国本土・台湾間の約100海里(≒180km)の海峡周辺の空・海・陸に数千機のドローンを同時に発進するため、産業、政府機関、指揮統制の問題を解決するための新たな取り組みをいくつか立ち上げた」(米Aviation Week・2023年9月26日)という構想も、本当に検討されるなら注目されるだろう。
遼寧、山東、福建などの空母を保有し、大型揚陸艦や、駆逐艦などの大型水上艦を運用している中国海軍にとって“地獄絵図”構想の検討が進むなら、無視できない事態になるかもしれない。
巨大水上艦を抱える中国海軍の意外な弱点?
さらに、中国海軍・海警にとって無視できないかもしれないのは、フィリピンとインドの関係だろう。
南シナ海の東側に広がる島国、フィリピンの沿岸警備隊もまた、中国・海警と揉め事が最近絶えない。
中国海軍は、南シナ海の海南島を空母や大型揚陸艦、駆逐艦などの大型水上艦、それに、ミサイル原潜の母港としている。
こうした中で注目されるのが、インドとフィリピンの間で2022年に契約された、ブラモス超音速対艦ミサイルの引き渡しだ。いよいよ「2024年2月~3月」に掛けてインドからフィリピンへの引き渡しが始まる(フィリピンのネットメディア「Rappler」・2月3日付)というのだ。
インドメディアは、この公称射程290kmとされる最高速度マッハ2.8~3.0のミサイルについて「フィリピンが中国から長い海岸線を守るためにインドの巡航ミサイルを配備する見通し」(インドのニュースサイト「The EurasianTimes」2023年12月29日付)と報じていた。南シナ海に面したフィリピンの西側に配備すれば、中国海軍・海警にとっては無視出来ない、フィリピン自身の“A2AD”という存在になるかもしれない。
また、フィリンピン北部バタン諸島バタネス州のバスコ空港近辺にブラモス中隊を配備した場合、バスコ空港からバシー海峡を挟んで台湾南端まで約195km、バスコ空港からバリカタン海峡を挟んでルソン島まで約225kmなので、ブラモス対艦巡航ミサイルの射程から言って、南シナ海と太平洋の間を通過しようとする大型水上艦にとっては、洋上の道を塞がれるようなものかもしれない。
ブラモスは、前述のように最高速度マッハ2.8~3.0で飛行し、最終段階では高度約10mにまで飛行高度を落として飛行し、標的に近づく。弾頭重量は200kg。空母や揚陸艦、それに駆逐艦などの乾舷の高い大型水上艦が標的になれば、ブラモスから逃れるのは難しいかもしれない。
TikTokが安全保障上の理由で、米連邦議会下院の“禁止法案”可決という形で揺さぶられるのと並行して、A2AD(接近阻止・領域拒否)と呼ばれる中国の海洋戦略や安全保障戦略も、米国のみならず、インドやフィリピンからも揺さぶられかねない事態となると、中国の最高指導者が様々な分野における「戦略能力の向上」を演説の中で強調した背景には、いろいろな形で中国が揺さぶられかねないという現実があるのだろうか。
【執筆:フジテレビ上席解説委員 能勢伸之】