熊本市中心部を流れる白川は、かつて大きく北に蛇行し、加藤清正公の時代に現在の流れに変えたと考えられている。熊本地震後の調査で、その白川蛇行説を裏付ける痕跡が、初めて熊本城内で見つかった。

白川蛇行説を裏付ける痕跡は備前堀に

まずは、その痕跡が見つかった場所を2022年11月の終わりに訪ねた。

――こちらが備前堀ですよね。今は水が溜まった状態ですが、そもそも備前堀の水はどこからやって来ているんですか?
熊本城調査研究センター 嘉村哲也さん:備前堀は熊本城内で唯一の水堀で水が溜まっている状態の堀なんですけどここが一番低くなっていますので、城内の高い所からしみだしてきて石垣の裾や斜面の裾から水がしみだしてきて溜まっているというところです

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――じゃあ例えば坪井川から入ってきているとかではなくて自然にしみだした湧き水?
熊本城調査研究センター 嘉村哲也さん:そうですね。城内の高い所から集まってくるものと少し下から湧く分もあるんですけど2つのパターンで水が溜まっていきます

――では大雨などで水が増えたらどうなるのでしょうか?
熊本城調査研究センター 嘉村哲也さん:この排水口からこの高さまで来ると水が抜けていくような形になっているんですね

石垣復旧に向け備前堀の排水作業開始

そしてこの日、石垣復旧のための調査に向けて備前堀の水を抜く作業が始まった。ポンプで水を吸い上げ坪井川へと流していく。それから1カ月が経った12月25日、再び現地を訪ねると…。

満水時で2メートル近くあった水はすっかりなくなり、「城内唯一の水堀」は「空堀」と化した。そして、ここからが本題。同じように行った昨年度の調査で思わぬ発見があったというのだ。底にたまった泥を取り除く作業をしたところ旧白川の流路跡ではないかという痕跡が見つかっている。実際にその痕跡を見せてもらった。

――ここが境界線ってことですか?
熊本城調査研究センター 嘉村哲也さん:そうですね。実際にきれいにしないとはっきり出ないんですけど、こちらは黒くて砂のような土が特徴ですね。そちら側が灰色から茶色のような土があって火山灰の噴出物が溜まっている。ここで明確に分かれます

熊本城調査研究センターの調査によると、境界線の南側は河川堆積物。北側の阿蘇の火山噴出物とは色が異なり、まさに、かつての白川右岸側の境界線がこの場所にあったと考えられるという。

熊本市内を貫く白川と坪井川。現在その流れは交わることはない。しかし1610年ごろに描かれた地図では、白川は北に大きく蛇行し、坪井川と合流していた。

その100年後に描かれた地図には蛇行は見られず、通常、川などを用いることが多い郡の境界線が不自然に北にせり出している。
これらのことから、かつて白川は大きく蛇行し、加藤清正の時代に行われた河川改修によって、現在の流れに変えられたとみられている。それを裏付けるのが今回の発見だ。

――備前堀で白川の流路跡が見つかったということは、飯田丸五階櫓のあった場所もかつては白川だったということでしょうか?
熊本城調査研究センター 嘉村哲也さん:先ほどの備前堀の痕跡からすると飯田丸と白川の位置関係というのは、詳細な部分は難しいんですけどこちらクスノキがあります。
これは樹齢が推定800年と言われているもので、熊本城を築城する以前からここに生えているものになるので、少なくともあそこの木のある場所は当時から地面があった崖の上の部分ではないかと考えられるので、どのラインまでくるのかは、今後、調査が進めば分かることもあると思います。
備前堀を通過したかつての白川は、桜の馬場城彩苑や県立第一高校を貫き船場橋付近を通って長六橋付近で現在の白川と同じ流れとなります

熊本城調査研究センター 嘉村哲也さん:こんなにはっきり土がきれいに分かれて見られるとは思っていなかったので、非常に驚きました。従来言われていた白川の河川改修の痕跡、改修前の状態がどういう風になっていたか追える貴重な成果かなと思います

土木の神様と称される清正公の事業の中でも最も象徴的とされる河川改修の痕跡は、城内唯一の水堀の底にしっかりと刻まれていた。

(テレビ熊本)

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