児童福祉施設で育ち、異例の出世

現在、福岡高裁で控訴審が進んでいる「五代目工藤会」の田上不美夫会長(67)は、1956年5月に戸畑市(現在の北九州市戸畑区)で生まれた。何の縁か分からないが、私(藪)も同年1月に同じ戸畑市で生まれた。

若い頃の田上不美夫被告
若い頃の田上不美夫被告
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田上会長は、10人きょうだいの三男で、他に兄2人、弟1人、姉3人、妹3人がいた。だが、男兄弟4人のうち、兄2人は生後間もなく亡くなり、弟も20代で亡くなっている。田上会長は、中学卒業まで北九州市の児童養護施設で育てられ、その間に、両親は離婚している。

野村悟被告と田上不美夫被告(工藤会制作ビデオより)
野村悟被告と田上不美夫被告(工藤会制作ビデオより)

田上会長は、今回の控訴審の被告人質問に対し、「五代目工藤会」の野村悟総裁(77)について「父親のような存在です」「一言で言えば好きというような存在」と答えている。一方、実父については「総裁とは真逆」「女子どもに手を挙げる、酒浸り。ベルトで叩かれたり足蹴にされたり」と語っている。

また、田上会長だけが父親から暴力を振われたとして、その理由について「妾の子だからじゃないですか」と答えている。

田上会長は、児童養護施設では目立たない子どもだったようだが、中学時代にすでに恐喝で検挙されている。
中学卒業後、工員として働いたが、その翌年の1972年には当時16歳で戸畑にあった「工藤会木下組」に加入した。20歳前に父親が亡くなっているが、死亡届出や葬儀は田上会長自らが行ったという。1976年、田上会長は「木下組」が解散したことから、組の中島直人若頭が結成した「工藤会田中組戸畑支部(※1981年「中島組」に改称)」の組員となった。

1979年12月、工藤会から独立した「草野一家極政会」組員が、「工藤会」最有力幹部だった「初代田中組」の田中新太郎組長(当時39)を射殺したことにより、「工藤会」と「草野一家」が激しい抗争を繰り広げた。

田上不美夫被告が襲撃した大東亜会事務所
田上不美夫被告が襲撃した大東亜会事務所

1980年7月、当時24歳の田上会長は、北九州市若松区の「草野一家大東亜会」事務所を銃撃。その後、田上会長は中島組行動隊長に昇格している。
暴力団の行動隊長は、抗争事件等では切り込み隊長となる。翌1981年12月に逮捕され服役するが、恐らく、中島組行動隊長に昇格したのは、大東亜会襲撃事件の功労も高く評価されてのことだろう。

田上会長は、銃撃事件及び恐喝等で短期間服役したが、その後、中島組本部長に昇格している。本部長は組の運営責任者的存在で組長、若頭に次ぐナンバー3の地位にある。

野村総裁による大抜擢

田上会長は、遅くとも1986年には「田中組中島組」本部長に就任しているが、この年、当時39歳の野村総裁は「工藤会三代目田中組」組長を継承した。

初代工藤連合草野一家の序列
初代工藤連合草野一家の序列

1987年6月、抗争を続けてきた「工藤会」と「草野一家」は大同団結し、「工藤連合草野一家」を結成。当時は名誉職だった総裁に「工藤会」の工藤玄治会長(当時77)、実質トップの総長に「草野一家」の草野高明総長(当時65)が就任した。そして、実質組織を運営する若頭に「草野一家」の溝下秀男若頭(当時40)、ナンバー4の本部長に「工藤会」の野村悟理事長代行(当時40)が就任した。この時、野村総裁が「工藤会」トップに昇り詰める道筋が出来たと言ってよいだろう。

三代目田中組組長時代の野村悟被告
三代目田中組組長時代の野村悟被告

この年、田上会長は「田中組中島組」のナンバー2の若頭に昇格している。この頃、野村総裁が、田中組傘下中島組の田上会長に注目し、高く評価するようになったようだ。田上会長が児童養護施設出身であることを聞いた野村総裁が、田上会長に関心を持つようになったという。

溝下秀男氏と野村悟被告(1994年撮影)
溝下秀男氏と野村悟被告(1994年撮影)

1990年12月、「工藤連合草野一家」の草野総長が、健康上の理由から引退、総裁に就任した。溝下秀男若頭が「二代目工藤連合草野一家」を継承し総長に、野村総裁は若頭に昇格した。また、工藤総裁は名誉総裁となった。

この時、「田中組」傘下の「中島組」若頭だった田上会長(当時34)が、野村総裁から大抜擢を受け、上部組織である「田中組」のナンバー2若頭に就任した。若頭は若者頭(若衆頭)の略で、若者(子分)の中の長男格だ。田上会長は野村総裁の子分である中島直人組長(当時48)を飛び越して若頭となった。

今回の控訴審における被告人質問で、田上会長について質問された野村総裁は、「信頼できる」「若い頃からずっと見てきてますから。一番信頼のおける人だと」と語っている。その言葉に嘘はないだろう。

元漁協組合長射殺事件

1998年2月18日、北九州市小倉北区古船場のクラブ前路上で、元漁協組合長、梶原國弘氏(当時70)が、「工藤連合草野一家田中組」傘下の「中村組」の中村数年組長ほか1名から射殺された。
野村総裁、田上会長が控訴審で争っている4事件のひとつだ。

梶原国弘氏
梶原国弘氏

福岡県警は、同日、所轄の小倉北警察署に捜査本部を設置し、地道な捜査を続けた結果、2002年6月、実行犯の中村数年受刑者(当時55)と田中組幹部N(当時42)、犯行使用車両を準備した田中組古口組の古口信一元受刑者(当時52・2012年服役中に病死)を、さらに別件恐喝事件で服役中だった「三代目田中組」若頭の田上会長(当時46)を逮捕した。

元漁協組合長射殺事件の現場
元漁協組合長射殺事件の現場

同年7月、中村受刑者、古口元受刑者、Nの3名は起訴となったが、この時、田上会長は証拠不十分で処分保留となった。中村受刑者らは、事件への関与を否認し続け、最高裁まで争ったが、2008年8月、中村受刑者については無期懲役、古口元受刑者は懲役20年が確定した。また、Nについては、2006年5月の一審、福岡地裁小倉支部で無罪判決が出され、検察は控訴を断念した。
事件後25年が経過した今回の控訴審で、中村受刑者は一転して、もうひとりの実行犯がNだったと認めている。Nは2011年に病死している。

田上不美夫被告(工藤会が制作したビデオより)
田上不美夫被告(工藤会が制作したビデオより)

元漁協組合長事件での逮捕当時、田上会長は別件恐喝事件で服役中だった。この事件は北九州市に進出したパチンコ店の経営者に対し、工藤会側が挨拶料名目で金を要求し、現金2,000万円及び額面6,000万円の手形を恐喝したという事件だ。1998年10月に、当時、「工藤連合草野一家」若頭だった野村総裁(当時51)らもこの事件で逮捕された。だが、野村総裁は不起訴となり釈放された。田上会長は起訴され懲役4年の実刑が確定した。ある意味で、田上会長は事件を自分までで止め、親分である野村総裁を守ったと言える。

2003年2月、田上会長(当時46)は刑務所を出所、すぐに「四代目田中組」組長を継承し、「工藤会」ナンバー3の理事長に就任している。野村総裁が田上会長を高く評価していた証である。

家族などに対する態度

田上会長の家族に対する態度は、野村総裁や「五代目工藤会」元理事長の菊地敬吾被告(51)などほかの幹部とは全く違っていた。田上会長の家族は「工藤会」とは全く無関係であるから、家族構成等詳細は控えるが、田上会長は妻、そして娘や息子を大切にしていた。

菊地敬吾被告
菊地敬吾被告

私は一度、田上会長自宅の捜索に加わったことがある。暴力団員、特に幹部の妻は、「極道の妻」と呼ばれるような派手な女性が結構いる。だが、田上会長夫人は普通の主婦としか感じられなかった。

田上不美夫被告
田上不美夫被告

組長や若頭といった暴力団幹部の多くは、配下組員を私用で遠慮無く使うことが多い。野村総裁は、子どもの運動会の場所取りも組員に行わせていた、という話もあった。だが、田上会長は、ボディガードをつけることもなく、自ら車を運転して妻や子どもたちと買い物などに出かけていた。
また、田上会長宅に出入りできる組員は、信頼の厚い数人に限られていた。自宅付近の住民に対しても、迷惑がかからないよう注意を払っており、組員に対してもそれを徹底していた。

田上会長は、自分が工藤会幹部であることから、息子の将来を心配していた。同年代の息子を持つある捜査員には心を許し、その捜査員と顔を合わせた時など、ほかの幹部や組員の目を気にすることもなく立ち話をしていた。多くは子どもの将来についてなどだった。

田上会長は野村総裁方に日参していたが、ゴールデンウイークなどには運転手もボディガードもつけることなく、自ら運転して総裁方を訪れていた。配下組員に対しては、時に口やかましく叱ることもあったが、休みの日などは家族を大事にするように指示していたようだ。金に困っている組員に対し、「これを使え」と数十万円を渡すこともあったという。
また、工藤会幹部に昇格後は、自らが育った児童養護施設に毎年、活動資金の援助やクリスマスプレゼントを続けていた。

クラブ襲撃事件(県警提供)
クラブ襲撃事件(県警提供)

2003年8月に発生したクラブ襲撃事件の時だったか、2012年8月に施行された「暴力団排除標章制度」に伴い発生した、標章掲示店舗女性経営者等に対する襲撃事件の時だったか記憶がはっきりしないが、女性が酷い目に遭わされたことに対し、田上会長は「かわいそうに」と口にしている。

暴排標章掲示店襲撃事件
暴排標章掲示店襲撃事件

これらの事件については、何れも野村総裁、田上会長らの明確な指示の下、行われたものと確信しているが、田上会長自身には被害者に対する同情の気持ちがあったのではないだろうか。

野村総裁への絶対忠誠

田上会長の性格は、情に厚く、直接利害のない一般人などに対しては礼儀正しい反面、激昂型でもあった。

2003年3月、私が「工藤会」担当の捜査第四課管理官になって間もない時期に、本家と呼ばれる野村会長(当時)方を捜索した時、初めて田上会長と話をした。この数日前、2000年10月に発生したゴルフ場支配人に対する殺人未遂事件で、指示者の工藤会幹部を逮捕した。
この事件は、溝下総裁や野村会長がゴルフ場利用を拒否されたことが原因だったので、その容疑で本家と呼ばれた野村会長方、「工藤会」本部事務所を捜索した。

五代目工藤会継承式(工藤会が制作したビデオより)
五代目工藤会継承式(工藤会が制作したビデオより)

我々が捜索に入ると、野村会長方応接室に田上理事長(当時)やT幹事長など幹部数人が待ち構えていた。田上理事長とは初対面だった。田上理事長は「わしらの家はひっちゃかめっちゃかにしてもらっていい。だが会長と総裁の所は別だ」と口火を切った。「会長は3日前から風邪で寝ている。2階の捜索はやめてもらいたい。警察が無理に捜索するというなら、わしらは誰も立会しない」とやや興奮した様子で続けた。会長本家の2階は野村会長の寝室、浴室などプライベート部分になっている。野村会長の具合が悪いようだということは把握していた。だが、だからといって捜索をしないということはできない。

田上理事長はさらに「わしも会長には3日前に会ったきりだ。毎日、ここには来ているが、わしが無理して会長に会うと、ほかの者も会おうとするので会っていない。ほかの部分は何ぼでもみてもらっていい」と続けた。私は「会長が、具合が悪いんなら、その点は配慮します。だが、捜索しないということはできない」と答えた。田上理事長が、野村会長のことに関して細心の注意を払っていることを強く感じた。すると「もし会長が酷くなったらどうするんか!」田上理事長が興奮した口調で叫んだ。「それは仕方ないやないですか」私は口を滑らせてしまった。「仕方ないとは何か!」田上理事長は顔色を変え怒鳴った。そこでT幹事長が「理事長、ちょっと外しとかんですか」と引き取り、田上理事長は一旦、席を外した。

「警察がそげん言うなら、わしらはみんな出て行くですよ。立会人がおらんかったら困るでしょう。ここに立会しきる公務員なんかひとりもおらん」T幹事長は続けた。「会長がご病気というなら、そこは考慮します。どうしても立ち会わないというなら、こちらも考えがある」。私は譲るつもりはなかった。

結局、会長の寝室など2階部分は、本家統括責任者の「工藤会」幹部が立ち会い、班長以下、必要最小限の捜査員で捜索を実施した。
間もなく、田上理事長が戻ってきたが、さっきとは打って変わって冷静になっていた。そこで田上理事長ともしばらく雑談した。「わしらは会長や総裁のためには命をはっとるですけ。わしの家ならしっちゃかめっちゃかしてもらってええですよ」田上理事長は先ほどと口調まで変わっていた。

田上理事長にとって、野村会長、溝下総裁(当時)は絶対の存在、特に野村会長に絶対の忠誠を誓っていることを強く感じた一幕だった。

私は田上会長に警察との接触禁止を指示したことを聞いてみた。田上会長は、2003年2月に出所し、「工藤会」理事長に就任後、「警察との接触禁止」を「工藤会」幹部、組員に指示、徹底した。

元警部銃撃事件の現場
元警部銃撃事件の現場

当時、「工藤会」との窓口を担当していたのが、2012年4月に小倉南区で撃たれた被害者H警部補(後に警部)だった。田上理事長は「警察とはものを言わないし、窓口も置かない。私が10日の日に指示した。これが会の方針です」と答えた。

親分を守る、それがヤクザの伝統

野村総裁、田上会長の2人は、第一審の福岡地裁では一貫して犯行への関与を否定していた。ところが、今回の控訴審で、田上会長は「女性看護師襲撃事件」(2013年1月発生)と「歯科医師襲撃事件」(2014年5月発生)について、自分が独断で犯行を指示したと供述を一転させた。

田上被告
田上被告

控訴審での弁護側の被告人質問に対し、田上会長は判決後、家族が「泣いてました。お父さんはそんなことしてないよね。やるせない、恥ずかしいです。情けない」と語っている。また、自分の指示で犯行を行い、有罪となった組員らについては、「生きて帰れるか帰れないかの判決を受けていますし、その人にも家族がいるから、本当に申し訳ないと思っています」と証言している。そして自分については「獄中死と思っています」と答えている。それは本心だろう。
一方で「工藤会はなくすつもりはありません」「こういう世界じゃないと生きられない人間もいる」と暴力団社会を肯定している。

我が国の暴力団は、ヤクザを自称し、親分子分、兄弟分という血縁関係になぞらえた人間関係を基本としている。だが、実際は、子分らに求められているのは親分を組織的、経済的に支え続けることだ。その意味で、今回の田上会長の行動はヤクザ社会の模範とも言えるだろう。

(左から順に)田上被告と野村被告
(左から順に)田上被告と野村被告

田上会長は、獄中死を覚悟してまで親分である野村総裁を守ろうとしている。人生の大半、野村総裁に絶対忠誠を続けて来たことを考えれば、それ以外の選択肢は思いもしなかったのだろう。野村総裁の意思を受けてのこととは言え、田上会長ら工藤会が行った数々の事件を許すことはできない。

田上会長は、ほかの2事件について自らの関与を認めることはないだろう。野村総裁を最後まで守ろうとするだろう。そして、野村総裁は最後まで否認を続けることだろう。

ヤクザにしかなれない人間などいない。暴力団社会で成功するだけの能力があった田上会長は、機会さえ与えられれば、一般社会でも成功しただろう。

■藪正孝(やぶ・まさたか)
1956年、福岡県北九州市戸畑区生まれ。1975年、福岡県警察官に。41年間の警察人生のうち16年間、暴力団対策部門に携わる。2008年、工藤会取締りを担当する「北九州地区暴力団犯罪捜査課(通称・北暴)」の初代課長に就任。2016年、定年退職。その後、ノンフィクション作家として活動。代表作は「県警VS暴力団刑事が見たヤクザの真実」(文春新書)。新著に「暴力団捜査極秘ファイル初めて明かされる工藤會捜査の内幕」(彩図社)がある。また暴力団に関するより正確な情報を発信するサイト「暴追ネット福岡」を開設している。

テレビ西日本
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