仙台空襲を語り継ぐ「語り部」が伝える思い

1,000人以上の命が奪われた仙台空襲から、7月10日で75年となる。
仙台空襲の体験を伝えてきた「語り部の会」は、高齢化で会員が年々減り、存続の危機を迎えている。
それでも、「二度とあってはならない」この思いを伝えたいと、語り部の一人がインタビューに応えてくれた。

仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会 田島稜威雄さん(84):
(爆撃は)ものすごい音で破裂する音がした

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宮城・仙台市泉区に住む田島稜威雄(たじまいつお)さん(84)。
「仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会」の語り部の1人。
仙台空襲があったのは、今から75年前。当時、田島さんは、東二番丁国民学校の3年生、9歳だった。

仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会 田島稜威雄さん(84):
ここが空襲で焼夷弾が落ちた範囲。私の家は、ここ。東四番丁と東五番丁の中間。最初に焼夷弾が落ちたのが、ここですね

自宅は現在のクリスロード商店街(青葉区)にあった。
仙台空襲の3年前に母親が亡くなり、父親は戦地へ。
当時、家には75歳のおじいさんと小学6年生の姉、田島さんと5歳の弟の4人がいた。
1945年7月10日午前0時3分、
仙台の上空に突如、アメリカ軍のB29爆撃機123機が襲来した。

911トン、1万発以上もの焼夷弾を、2時間にわたり仙台に投下した。
市街地のほとんどが無差別に爆撃され、炎に包まれた。

仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会 田島稜威雄さん(84):
私は、空襲の時は最初は寝ていて、焼夷弾が落ちるまで知らなかった。うわーっと、ものすごい音で、ドンドンバンバン(という音)が絶えないから、隣の家の防空壕に避難した。安心していたら、知らない男の人が入ってきて、「防空壕は危ないから出なさい」と言われ出された

空襲後の風景は一変 焼け野原に

紅蓮の炎に包まれた仙台市中心部。
犠牲になった市民はわかっているだけでも、1,000人以上に上った。
田島さんの家族は仙台駅より東側へ必死で逃げ、全員無事だった。

一夜明け、目の当たりにした焼け野原。それでも、こう考えていたという。

仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会 田島稜威雄さん(84):
私たちは、まだ「日本は勝つ」と。仙台が丸焼けになっても、そう思っていた。「日本は神の国で、兵隊さんがすごく強い」「絶対負けない」と、小さい時から教えられてきた。(終戦で)大人が「負けたんだぞ」と言うまでは、私は日本が戦争に負けるなんて思ったこと、ただの一度もないですよ。それが「教育」ですよね

田島さんたち「語り継ぐ会」は、1972年の結成以来、戦争を知らない世代にその体験を伝えてきた。
しかし、最も多い時で100人いた語り部は、現在13人。
高齢化で亡くなる会員が、毎年出ている。

仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会 馬宮守 事務局長(87):
新しい人が入ってこない。私が87歳で、最も長老。今年は新型コロナもあって活動ができないから、なおさら、どうしようもない。時の流れという一言

同級生が戦争の犠牲に

現在の東二番丁小学校には、仙台空襲で犠牲になった当時の児童の名前を記した観音像がある。この中に、田島さんの大切な同級生がいる。

仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会 田島稜威雄さん(84):
すぐ近所に、野村浩嗣くんという友達がいたんですよ。空襲の前の日、7月9日も学校から帰ってから、ずっとうちで遊んでいたんですよ。夕方になって、「また明日、遊ぶべな」と別れたのが最後になった。彼(の家族)は、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、妹の6人。自分の家の防空壕で死んでしまった

仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会 田島稜威雄さん(84):
ただ「勝つんだ! 勝つんだ!」と言われて、戦時中、「小学生」を過ごしてきた私たち。友人が、その戦争のために死んでしまう。今なら考えられないこと。こんなことあっちゃだめです。こんなこと二度と、あっちゃいけません

(仙台放送)

仙台放送
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