仙台空襲から75年…記録を残す人たち

1,000人以上の命が一夜にして奪われた仙台空襲から、7月10日で75年。

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仙台市の記録や証言だけでなく、焼夷弾を投下したアメリカ軍の資料からも記録を残そうと活動している市民団体がある。

太平洋戦争末期、アメリカ軍の相次ぐ空襲により日本各地で多くの市民の命が失われた。
1945年7月10日未明、仙台にも「そのとき」がやってきた。
B29爆撃機123機が焼夷弾を投下。少なくとも1,064人が死亡し、焼失面積は5㎢に及んだ。

「仙台・空襲研究会」の新妻博子さん。

これまで被害を受けた側の視点から語られることの多かった仙台空襲を、アメリカ軍の資料からも読み解き、成果を一冊の本にまとめた。

研究からわかったのは、アメリカ軍の綿密な計画。
これは、写真を組み合わせて作成した「リト・モザイク」と呼ばれる図。
焼夷弾を落とす目標となる「爆撃中心点」が記されている。
その場所は、現在のクリスロードと東三番丁の交差点にあった。

仙台・空襲研究会 新妻博子さん
密集地を狙って、半径1.2kmの円を描いた。(交差点は)その中心だった。道路のクロスする所だから、上から見てわかりやすい

アメリカ軍はこの場所を中心に、半径1.2kmの範囲に着弾すれば、仙台は壊滅すると考えていた。
仙台についての情報をまとめた資料には、「空襲の範囲外と考えられていて、心理的効果は大きい」と記されていた。

焼夷弾の投下が始まったのは午前0時過ぎ。
わずか2時間で、1万発以上の焼夷弾が仙台の街に降り注いだ。

今も残された横穴式防空壕

仙台・空襲研究会 新妻博子さん:
ここが目的地

街が炎に包まれる中、逃げ惑う人々が目指したのが防空壕。

仙台・空襲研究会 新妻博子さん:
ここのように部屋のようになっていて、居間のようになっているのは、大変珍しいと思いますね

広瀬川沿いの崖には、今もいくつかの横穴式防空壕が残されている。
仙台市内でも、大きく分けて2種類の防空壕の整備が進んでいた。
地形を生かした「横穴式」と、地面を掘り下げ、丸太や土で覆った「掩蓋(えんがい)式」。
仙台空襲では、掩蓋式防空壕に逃げた多くの人が炎や煙にまかれて死亡した。

仙台・空襲研究会 新妻博子さん
掩蓋というのは、こういう崖とか、横穴を掘るような地形じゃないところ、例えば平地で、街の中とか、とにかく下に穴を掘るしかないわけです。防空壕は公会(地域組織)ごとあったにはあったんですけども、安心して入って、かえってほとんど蒸し焼きになった場合もあったと思う

子どもたちのために残す記憶

爆撃中心点に最も近い学校、東二番丁小学校。

空襲で亡くなった児童23人の名前が記された木彫りの像が飾られている。
誰がいつ残したのかはわからない。
しかし、子どもたちの「学びのきっかけ」として、今も生かされている。

東二番丁小学校 堤英俊校長:
この観音像を目の当たりにして、自分の調べる気持ちや意欲、そういったものが高まってくるし、ここから先の部分ですね、「じゃあ一体、空襲ってどんなことだったんだろう」とか、そういった部分にまで学びを深めていけるのではないか

校庭にあったクスノキも空襲で焼け落ちたが、3年後には再び芽を出し、立派な大木に育っていた。
戦争を二度と繰り返さないため、記憶をどう残していくか。
新妻さんたちが調べた爆撃中心点の近くのビルに、7月8日 1枚のプレートが設置された。
仙台空襲の記憶を残したい。設置のための募金には、20代から90代までの約90人が応じた。

仙台・空襲研究会 新妻博子さん:
例えば、ここに焼けた建物があれば、ここは残った家とわかるんですけども、そういうものがほとんどないわけですね。これからも、どんどん体験者がいなくなって、若い人たちがお話を聞けなくなるので、そういう形で場所の記憶ということで、残ってくれるといいなという気持ちです

記録がつなぐ、仙台空襲の記憶。
75年を経ても、忘れてはいけない過去がある。

(仙台放送)

仙台放送
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