78年前に戦争が終わったその3週間前、愛媛・松山は大規模な空襲を受け、旧市街地の約9割を焼失、200人超の人たちが亡くなった。生き延びた女性が当時を思い出すたび心に浮かぶのは、ある「後悔の思い」だ。
一夜で市街地が壊滅「松山大空襲」
2023年7月26日。今年も「松山大空襲」の日に合わせ、愛媛・松山市で犠牲者をしのぶ追悼式が行われた。
この記事の画像(9枚)78年前、たった一夜で市内の約半数にあたる1万4,300戸の家が焼け、251人の尊い命が奪われた。
大西郁さん、90歳。
「松山大空襲」のあの日、大西さんは小学6年生だった。
大西郁さん:
松山市を2時間かけて、B29、120機が来たそうですけども、2時間かけて市内を焼いたんですね
母親を病気で亡くしたあと、6人兄弟の末っ子だった大西さんは、現在の松山市駅の近くで菓子店を営んでいた、父親の姉にあたる、おばの家に引き取られた。
大西郁さん:
昔は履き物だったから、足袋は必需品だったんですよ。配給もろくにないですからね。その足袋の縫い方を、おばさんが一生懸命、つま先の丸みのつけ方なんかを教えてくれたんですね
大西さんを引き取った時60代だったおばの中川サダさんは、その後、脳溢血で寝たきりになってほとんど動けなくなったため、身の回りの世話は幼い大西さんが1人でしていた。そんな大西さんに、おばは動きにくい手で、一生懸命に書いた文字を見せてくれたという。
大西郁さん:
やっぱり商売人ですね、何年も寝付いてても「毎度有難う御座います」って書いてるんです。「戦争がおさまったら、またおばさん商売できるようになるよ」って、「どういうことになるかわからんけど、戦争が終わったらね」ということを、おばさんの枕元でよく話してました
地獄の中に置いてきぼりに…
大空襲に見舞われたあの日の深夜。家にいたのは大西さんと、一緒に暮らしていた「姉さん」と慕う30代の女性、そしておばの3人だけだった。
大西郁さん:
お城山にもサイレンがあって、県庁にもサイレンがあった。一斉に鳴ることはなかったんですけども、あの時は一斉に鳴ってね。大音響で、部屋の中でも会話できないくらいの大音響で、「これはただ事ではない」と思って
大西さんは以前から決めていた手はず通り、動けないおばを乗せるため、まずリヤカーを借りようと近所の家に走った。しかし、リヤカーには既に別の荷物が載せられていて、おばを乗せることができなかった。
大西郁さん:
「おばさんどうするの、おばさんどうするの」と言いながら(お姉さんと)逃げたんですけども、その時の自分の心の中には鬼がすんでいたんじゃないかなと思います。おばさんを見殺しにすることは、もう心の中では半分わかってましたね。地獄の中に置いてきぼりにしてしまいました
天まで焦がすほど、松山の街を焼きつくした炎。
次の日、大西さんは「せめておばさんの遺骨を拾おう」と家を目指したが、再び現れた戦闘機の機銃掃射にあい、家の跡地にたどり着くことさえできなかった。
大西郁さん:
弱者が一番に切り捨てられる。私もおばさんを見捨てて逃げた「後悔」が、本当にいつまでも心に残りますのでね
今を生きる人へ…「犠牲を払って手に入れた平和」
あの日を思い出すたびに沸き起こる後悔の念。大西さんが今も背負い続ける「戦争の心の傷」。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻、北朝鮮による度重なるミサイル発射など、今も戦争の火種は、世界の各地でくすぶっている。日本に生きる私たちは、今、何をすべきか尋ねた。
大西郁さん:
戦争が起これば、一番の犠牲になるのは一般市民だから。おばさんを空襲で亡くしてつらい思いをして、それでやっとそういう犠牲を払って手に入れた平和ですから。これからの人たちには、がんばって平和維持を本気になって考えてもらわないといけないと思います
(テレビ愛媛)