長崎は2023年8月9日で原爆投下から78年を迎えた。長崎と広島、2度原爆にあったある被爆者が、初めて胸の内を明かした。

「広島」と「長崎」で原爆の被害に

本州の最北端・青森市に住んでいる、福井絹代さん(93)。今は一人暮らしの絹代さんは長崎市の出身だ。長崎のお盆の思い出写真を見ながら、ふるさとに思いをはせた。

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被爆者・福井絹代さん:
墓地でご飯を食べるのが楽しみで、子供だもん。何があっているのかわからない。お墓にごちそうを持って行って、墓参りのあと、花火をしていた。長崎と聞いただけでわくわくする

あの日のことを知る被爆者だが、他の人とは大きく違う点がある。被爆者健康手帳に記された「広島」と「長崎」の文字。絹代さんは2つの地で原爆の被害に遭った「二重被爆者」だ。

14歳の夏、親子3人で広島に引っ越した後に父親が出征したため、絹代さんは弟の国義(当時12歳)さんと2人で暮らしていた。その日は朝から国義さんと口げんかになり、庭から部屋に戻ろうした瞬間だった。1945年8月6日の午前8時15分、絹代さんは広島市で被爆した。

被爆者・福井絹代さん:
敷居に足を乗せて空を見たら「敵機が来た」と思って、見た瞬間ばーっと光が広がった。何が何だか分からず、私が生き埋めになったのを弟が引っ張り出してくれた。顔は火傷と傷だらけで、昔「ヨードチンキ」といっていた赤い消毒を塗って光る。それに真っ白い塗り薬を塗る。お化けみたいだった

国義さん(84歳で死去)が当時のことをつづった手記が、広島の平和記念資料館に残されている。姉弟2人とも生き延びることはできたが、脳裏に刻まれたのは想像を絶する現実だった。

忘れられない、足の裏の感触

弟・国義さんの手記:
服が破けていると思ったら、どろどろに焼けた皮膚が垂れ下がっていた。あまりにも悲惨な光景に震えが止まらなかった。生まれて初めて見る地獄だった

絹代さんたちは地元長崎の親戚を頼ろうと2日後になんとか列車に乗り込んだ。しかし逃げたつもりが、逃げることができていなかった。1945年8月9日、絹代さんたちは長崎で入市被爆したのだ。

被爆者・福井絹代さん:
その時、なんで私こんな恐ろしい目に2回も遭わなきゃならないんだろうと思った。足の踏み場もない、道幅いっぱい死体だらけだった。とにかくまたいだり踏んだりしないと先に進めないんだから。いまだに足の裏の感触は忘れない。何とも言えない…

体験した人しか恐ろしさは分からない

絹代さんは結婚後、青森に住むようになった。原爆症と見られる病気で入退院を繰り返していたが、一男一女に恵まれた。しかし、たとえ家族であってもあの日のことを話すのは抵抗があった。

被爆者・福井絹代さん:
体験した人じゃないと恐ろしさは分からない。娘にも息子にも話をしない。想像つかないだろうからと思って、話していない。夫にも言わなかった。何年ぶりで思い出したかしら。普段は思い出さないようにしているの、なるべくならね。戦争を知らない人たちは幸せだわ

忘れたい出来事がある。消したい過去がある。絹代さんにとっては被爆当時の過酷な状況を広島と長崎と二度も目の当たりにしてしまっただけに、余計思い出したくないつらい記憶となっている。

そして、その願いが叶うことはなく、絹代さんは被爆の記憶を抱えたまま2023年も8月を迎えた。想像を絶する記憶を語る被爆者の想いの重みを、受け取る私たちも意識する必要がある。

(テレビ長崎)

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