米・ハワイ州のマウイ島で8日に起こった、「過去100年で最悪」とバイデン米大統領が語った山火事では115人の死亡が確認され(現地8月29日現在)、今も行方不明者の捜索が続いている。
こうした中、現地在住の日本人による支援グループの代表を取材した。
「東日本大震災を知った時のようなショック」
「初めてマウイに行ったのは1985年ごろだと思います」
現地で支援グループを立ち上げた岡崎友子さんは、約40年前にマウイを初めて訪れ、今は1年のうち10カ月程度をマウイのハイクという小さな町で暮らしている。ハイクは島の北側で、被災したラハイナとはちょうど島の反対側になる。
この記事の画像(9枚)岡崎さんは山火事が発生した日のことをこう振り返る。
「普段からマウイは風が強いのですが、8日はハリケーンが来ていて特に風が強かったんです。当日私たちは海でフォイルサーフィンを楽しんでいたのですが、翌朝起きて山火事のことを知って本当に驚きました。東日本大震災を初めて知った時のようなショックでした」
ラハイナはまるで戦場のような姿だった
ラハイナに向かおうとしても、道はすでに封鎖されていて車では近寄れない。それでも家族や自宅が心配で現地に歩いて行ったり、海から見に行った人によると、ラハイナの街は誰もいないゴーストタウンのような、まるで戦争があったような姿だったという。そこで岡崎さんはじめ在マウイの日本人は、9日夜には寄付を募るサイトを立ち上げた。
「東日本大震災の時、遠いけれど何かできることはないかと小さなチャリティーから始めたら皆が動き出しました。だから今回も困って
自分が何を出来るか考えて動いている
現在ラハイナは道路の封鎖を解除し、被災がひどいエリア以外は通り抜けができるようになった。しかし火災による粉じんや有毒ガスが発生していて、一般の人は近寄れない。ラハイナの街の山側にある住宅地では、被災は免れたものの空気が汚染されていたり、水に有毒物質が含まれていて生活が難しいという。被災し家を失った人々は、知人の家やホテルなどに身を寄せていて、避難所は閉鎖し始めた。
支援物資はどうだろうか?岡崎さんは「物資的には、だいたい足りています」という。
「物資に困ったのは最初の10日間ぐらいで、さまざまな人たちが支援物資を届けてくれています。小学生がお弁当を作って配ったり、漁師は被災者に食べてもらおうと魚を釣ってきたり、コンピュータ技師は使っていないコンピュータを修理して、被災者用にビジネス拠点をつくったり。マウイの人たちがそれぞれの得意分野で自分が何を出来るか考えて動いているという感じですね」
海の中で大事なことを学んでいるんだな
「住民の中には被災せずこれまでと同じように生活している人たちもいて、温度差はあります。でも多くの人たちが、毎日支援拠点に来て『何が足りない?』と聞いてはいろんなものを買ってきて。空気洗浄機が緊急で必要だと言うと皆が手作りしたり。そういう姿を見ていると自分もエネルギーをもらいますね」(岡崎さん)
サーフィンが盛んなマウイらしいエピソードもあった。岡崎さんはうれしそうにこう語る。
「被災しなかった子どものサーファーたちが、被災した子どもたちを『どう楽しませようか』と相談して、自分のサーフボードを持ってきて被災した子どもたちをサーフィンに誘ったんです。被災した子が波に乗ると皆で大喜びして。そんな様子を見ると『海の中で大事なことを学んでいるんだな。きっとこの子たちは皆を助ける若者になってくれる』とすごくうれしく思いました」
道沿いに建てられた十字架に祈りをささげる
今も多くの行方不明者の捜索が続いているラハイナ。死亡が確認されても墓地はなく、家族が亡くなった場所にも行けない遺族らのために、道沿いに十字架が建てられている。これをつくったのは岡崎さんの友人だ。
「どこにもお墓がないし、遺体すら見つかっていない人もたくさんいらっしゃるので、せめてそこに行って祈りをささげる場になったらと友人が建て始めたんです」
東日本大震災の時、マウイから支援に駆け付けた在マウイの日本人のコミュニティー。今は我々が支援を行う番だ。