45年の歴史に幕を下ろすまで、残りわずかとなった札幌駅の商業施設「エスタ」。
エスタの思い出を集めたメッセージボードには、すでに閉店を惜しむ声があふれていた。
様々な人の思い出がエスタに…
「すごいさみしいです。これを見ていてさみしいと思って見ていました
(Q:思い出のお店は?)お菓子売り場。回転するお菓子がありましたよね」(40代女性)
昭和の時代に、どこのデパ地下にもあった回転するお菓子売り場。

エスタにも地下一階にあり、当時は珍しい量り売りに子どもたちがこぞって集まっていたという。
「そこでいつもお菓子を買って親戚の家にあそびに行ったりしていた」(40代女性)
北海道南部の七飯町から来た男性は、修業時代を地下直結の理容室で過ごした。
「サラリーマンでも上の人もいれば駆け出しの人もいる。学生もいれば子供もいる。男の人女の人もいる。どんな頭にでも対応というかどんなスタイルでも対応する感じ。若いころからお世話になってありがとうございました」(七飯町から来店した男性)

様々な人たちがエスタに別れを告げていく。
それは、エスタで働く人たちも…
看板娘の思い出は…あの大ヒット商品
エスタ大食品街の「とんかつ玉藤」で30年以上働く、77歳の三浦恵美子さん。このお店の看板娘だ。
「もうこれで私も卒業です。もう77歳ですから十分働かせてもらいました。なんとか店長さんに助けていただいて働く結果になりました。最後までありがたく」(とんかつ玉藤エスタ店・三浦恵美子さん)

働いてもらっている理由を店長に聞くと…
「もちろん看板娘。エスタの玉藤といえば必ず出てきますので。『おばちゃん!』と手を振ってくれる人がいるから」(とんかつ玉藤エスタ店・細矢三男店長)

看板娘の三浦さんが長年売り子をするとんかつ玉藤。お昼時には近隣のサラリーマンも加わり、大忙しだ。
毎日食べても飽きないよう、エスタ店独自のお弁当や総菜を数多く用意したという。
「お弁当置いてあるお店が多いので、何か特色を出さないといけない。外れてはいけないのが、とんかつ店というところ。必ずカツが入っているかフライになっているか、そんなお弁当」(とんかつ玉藤エスタ店・細矢三男店長)
カツ丼だけでも味噌やネギ塩、イタリアンにタレカツの4種類があるなど常に20種類近くのお弁当を取り揃えていた。

さらに、エスタ店から全国的にヒットした商品も生まれた。
それがカツカレー棒だ。

ご飯とカレーを豚のヒレ肉で包み、棒状に揚げたワンハンドで食べられるカツカレー棒。

2010年に販売され、一躍大人気に。
通路にまで行列が続く人気となり、一日2000本以上販売する大ヒット商品になった。
とんかつ玉藤はエスタの閉店を前に、すでに隣の東急百貨店に出店していた。

しかし、三浦さんはエスタ店の最終日に引退することを決意していた。
「感無量というか、まだ実感がない。ここが終わってしまうというのが。なんか寂しいですね」(とんかつ玉藤エスタ店・三浦恵美子さん)

想定以上 「毎日フル回転」ラーメンに大行列
閉店が近づく中、連日、お客さんでにぎわうエスタ10階レストラン街。

その中でも「札幌ら~めん共和国」の行列は絶えることがない。

しかし、19年前はもっとすごかったようだ。初年度の集客目標は120万人。
その4分の1の31万人が、わずか1カ月で訪れるほどの人気ぶりだった。

開業当初から札幌ら~めん共和国に携わっている沼田館長は、想定外の事態にエスタ全体でサポートをしていたという。

「我々の仲間も素人だし、オーナーもこれだけ来るとは思っていないからすごく苦労した。毎日行列の中に立って何時間待ちとやっていた」(札幌ら~めん共和国・沼田初館長)
1日の売り上げは、地元の本店の数十倍にもなっていたという。
開業初期に出店していた、根室市にある「しげちゃんラーメン」。

繁田店主は、懐かし気に当時の様子を振り返る。
「毎日フル回転で300杯から400杯の売り上げ。始発から仕込みにいって終電まで間に合うか間に合わないかまで仕込みをしていました。1日18時間くらい動きっぱなし」(しげちゃんラーメン・繁田勇一店主)
オープンの大成功のあとも、札幌ら~めん共和国は新陳代謝を繰り返し、19年間で51店舗が出店。

いまも行列を作り続けている。
「涙が出るくらいうれしい。コロナの時にほとんどお客さんが入らなくて、苦労してようやくここ1年、ようやく戻ったときにうちの都合で閉館ですから」(札幌ら~めん共和国・沼田初館長)
沼田さんは現在65歳。エスタの跡地にできる新しい施設にも、札幌ら~めん共和国のようなフードテーマパークができることを願っている。

様々な人たちが関わり、作られたエスタの45年。

その歴史に幕を下ろすその瞬間まで残りわずかだ。

(北海道文化放送)