終戦から78年。清水市(当時)で空襲を経験した澤木昌子さん(91)は“普通”であることの幸せを伝えようと語り部としての活動を続けている。澤木さんは「命を大事にして伝えられる時に伝えていかないと」と話す。

151人が死亡した清水空襲

清水市(当時)の焼失地を示した地図
清水市(当時)の焼失地を示した地図
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1945年7月7日未明。テニアン島を飛び立った133機の米軍爆撃機・B-29は静岡県清水市(当時)の上空へと侵入し、計934トンもの焼夷弾を投下した。午前0時33分からわずか1時間半の間に清水の街は大炎上。市街地の約52%が焼き尽くされ、151人が死亡、276人がケガをした。

世に言う清水空襲だ。

清水空襲のなか父と逃げた澤木昌子さん
清水空襲のなか父と逃げた澤木昌子さん

静岡市に住む澤木昌子さんは13歳の時、この清水空襲を経験した。空から降る無数の焼夷(しょうい)弾。父と共に山の上へと避難した。

清水市が面する駿河湾はB-29が首都圏や名古屋方面に向かう際の通り道となっており、本土空襲の余波を受けた。旧清水市への空襲は終戦までに計11回を数える。

終戦で知った“普通”の大切さ

学生時代の澤木さん
学生時代の澤木さん

玉音放送を聞いた時、澤木さんは「これで勉強もできる。トイレにも行ける。風呂にも入れる。寝ることもできると思ったら、“普通”の生活というものが如何に大事か痛切に感じた」という。

「戦争は悲惨なもの」と語り部を続けている
「戦争は悲惨なもの」と語り部を続けている

だからこそ「戦争は悲惨なものだと知ってほしい」と願い、語り部としての活動を続けている。澤木さんの話を聞いた中学生たちは「すごく悲しい歴史」「今こうして暮らせていることも“ありがたいこと”なのだと改めて思った」などと口にした。

終戦から78年。戦争の体験を伝えることができる人は年々減り続けていて、近年では浜松市のベンチャー企業が戦争体験者の様々な証言を映像や音声として記録した“AI語り部”を開発するなど、デジタル化の取り組みも進められている。

膝が痛み立つことも容易ではない
膝が痛み立つことも容易ではない

1932年生まれの澤木さんも91歳になった。膝が痛み、立つことも容易ではないというが、それでも中学校や高校へと赴き講演するのにはわけがある。それは戦時下に「『ない』『なし』の生活をしていたからこそ、世界中の人にそういう思いをさせたくない」からだという。

伝えていくことが「自分の人生の使命」

78年ぶりに実家周辺を訪れた澤木さん
78年ぶりに実家周辺を訪れた澤木さん

この日、澤木さんは清水空襲の時に避難した道のりをたどった。ここに来たのは78年ぶりのことだ。父と布団をかぶり、大勢の人と一緒に必死で逃げた“あの日”。目をつぶると「父の姿が浮かんでくる」と、そっとつぶやいた。

「命は短い」と話す澤木さん。「もっと命を大事にして、伝えられる時に伝えていかないといけない。それが残された自分の人生の使命」と、平和な生活が続いていくためにも語り部としてこれからも戦争の悲惨さを訴え続けていく決意を新たにした。

(テレビ静岡)

テレビ静岡
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