熊本・合志市にある国立療養所菊池恵楓園では、かつて野球が盛んだった。1950年代には選抜チームが隔離政策の中、鹿児島に遠征したこともあり、当時のユニホームがこのほど復刻された。ハンセン病・元患者たちの情熱あふれる日々を見つめる。

ハンセン病と国の誤った隔離政策

国立療養所菊池恵楓園、6月11日には合志市民によるボランティア清掃が6年ぶりに行われた。

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入所者自治会 太田明副会長:
若い人がたくさん来ていただいてありがたいです。これを機会に恵楓園に親しんでいただければ。ここは全部、野球場だった。最初の九州療養所時代の野球場。藤棚の所がホームベース

ハンセン病が治ったにもかかわらず、元患者たちを療養所に閉じ込め続けた国の誤った隔離政策。この歴史を伝えるために残っているのが、1929年に造られたコンクリート塀「隔離の壁」だ。そして塀が造られた翌年、野球チームの歴史が始まった。

「隔離の壁」その中でも人気だった野球

入所者による3つのチームが結成され、職員チームを交え、試合をするようになった。外出が厳しく制限された入所者にとって、野球は大きな楽しみだった。

1930年代から1960年代にかけて、野球は全国の療養所で最も盛り上がりを見せたスポーツだ。1932年に行われた大阪と岡山の療養所の交流試合。当時の記録にはこんな一節が残っている。

「愛生」第3号(1932年12月)より:
熱烈たる燃ゆるがごとき意気を存分に示すことができたのは非常にうれしく思った。何という青春の朗らかさであろう

1941年、太平洋戦争が始まり食糧事情が悪化。恵楓園のグラウンドはサツマイモ畑になり、野球は中断されたが、終戦後に再開した。

やがて、園の東側に入所者が協力して新しい野球場が造られた。

入所者自治会 太田明副会長:
バックネットも立派だったし、ダッグアウト(ベンチ)もあったし、外野席は芝生で、これは本格的な野球場だと。非常に立派なグラウンドだと思いました

新球場完成記念大会の始球式で高松宮殿下が投げたボールは今も残っている。

さまざまなチームと共に汗を流した

2019年2月、取材当時の田中照幸さん
2019年2月、取材当時の田中照幸さん

2019年2月に元患者の田中照幸さんを取材した。田中さんは長崎市出身で当時13歳だった1947年に、父親とともに入所し、野球に出会った。

元患者 田中照幸さん:
恵楓園に入って、少年寮でボールとグローブとバットを初めて見た。そのとき「うわー野球をしてみたいな」ってキャッチボールを友達とした。球の握り方を知らんかったけど、海に石を投げていたから、投げるのはスピードあったよ。グローブはめてボールをパッと捕ったとき、鼻に当たった、忘れもせん。私は右投げ左打ちで珍しかった

園内から選抜されたオール恵楓チームは、園外から訪れるチームと対戦していた。熊本県立済々黌高校や自衛隊など、さまざまなチームとこのグラウンドで共に汗を流した。

対戦した済々黌高校野球部OB元・阪急ブレーブス投手 山本勘介さん:
それまでは全く知りませんでした。恵楓園にチームがあること自体。(最初は)「軽めにやっとけよ」とバッテリーで話したと思います。しかし、あとから変化球を使いましたので。覚えています、今でも。「おい、むきになるなよ」とキャッチャー言われたと思います。同じボールを握り、打ち、投げ、走っていましたから、野球をしている間は何の違和感もなく、病気のことは関係なく一生懸命やっていました

対戦した元自衛官 上杉公雄さん:
手が不自由なんですね、患者さんですから、右手のグローブでボールを捕って、左の脇に挟んでボールを持って投げるですね。この動作が非常に速いんですよ、ものすごく。もうわれわれと全く変わりませんよ、ボールを投げるまでの時間が。コントロールもあるし、スピードもある球を投げていました。大きな外野オーバーは飛んでこないんですよ。三振はありませんでした。コツコツも当ててくると。内野ゴロ、あるいは内野オーバーのはありました。かなり打撃も工夫して訓練されたのかなと思います

隔離政策の最中 監視の目をくぐり遠征へ

1952年、オール恵楓チームは鹿児島県鹿屋市にある療養所・星塚敬愛園へ遠征することになった。隔離政策のさなか、無断外出は厳しく処分されるおそれがあったが、監視の目をくぐって鹿児島に向かった。

田中さんは17歳、一番若く補欠だった。

元患者 田中照幸さん:
トラックで行ったとよ。座布団や布団を敷いて。(熊本市の出水あたりで)ひっかかった、警察に。「どこに行くとか?誰ば乗せよっとか」と怒って。(運転する園の職員が)「ハンセン氏病患者を運びよる」と言ってごまかした。そうしたら「ここを通ったらいかん、山の中を通って行け」と。忘れもせん

一行は約12時間後に到着。1週間滞在して4試合を行い、結果は2勝2敗だった。

星塚ニュース 恵楓園野球部来園:
4試合とも、熱と力のこもった試合で見る方も気持ちが良かった。これからも療養親善野球を行って仲良くしたい

翌年には、鹿児島の星塚敬愛園チームが恵楓園に遠征。そして、1955年、田中さんは、選抜チームのキャプテンとして再び鹿児島に遠征した。

元患者 田中照幸さん:
キャプテンだからみんなを引っ張っていかないかん。はあ~野球、楽しかったよ。満塁ホームランば打ったよ。ピッチャーは向こうにおるよ。友達、まだ生きとるよ

“隔離の壁”越えた交流 人生の支え

壁を越えた交流は、田中さんのその後の人生の支えになった。子どもを作れなかった田中さん夫婦は「たまちゃん」という名のおしゃべり人形を大切にしている。

田中照幸さんは2019年12月、85歳で亡くなった。

2022年9月末に、恵楓園の野球場では、亡くなったハンセン病患者や元患者たちへの「鎮魂の花火」が打ち上げられた。

太田副会長「和気あいあいと別世界」

恵楓園の入所者自治会・副会長を務める太田明さんは、オール恵楓チームが初めて鹿児島遠征した1952年に入所した。野球が好きな小学2年生だった。

入所者自治会 太田明副会長:
祖母と父親3人で来て、園長の診察を受けて、即入院でした。すぐ治るからということで、その日に親父と祖母は帰りました。ユニホームに憧れましたよ。自衛隊のチームだったかな。
それと水前寺印刷かな、強かったのは。それと互角に戦うんですよ。本当、差別もなく、偏見もなく。和気あいあいと別世界でしたね。療養所の中では。それでまた野球に引き込まれましたね

太田さんは1959年、岡山県の「長島愛生園」にあった療養所入所者を対象にした唯一の高校「邑久高校 新良田教室」に進学し、野球に打ち込んだ。

2年生の夏休みに「帰省する」と偽って、新良田教室野球部は東日本5カ所の療養所をめぐり、入所者や職員チームと対戦した。

入所者自治会 太田明副会長:
「自分たちは修学旅行もないし、何か高校時代の思い出を作ろう」と。とても痛快でしたよ。こんな開放感、味わったことなかったです

太田さんは東京の大学に進学、そして商社で数年働き、再び恵楓園に戻った。

復刻「オール恵楓」のユニホーム

1月、太田さんのもとに小包みが届いた。中身は野球のユニホームだった。対外試合に出ていた選抜メンバー「オール恵楓」チームのものだ。当時の写真から再現された。

当時のユニホームを再現
当時のユニホームを再現

入所者自治会 太田明副会長:
ドラフト1位で!

菊池恵楓園 歴史資料館 原田寿真学芸員:
実際に作られたものを見ると、だいぶ印象が変わりますね。太田さんの着られた姿を見て、自分もこみ上げてくるものがありました

少年チームのユニホームを着た原口友希学芸員(当時)と記念撮影をした太田さんも笑顔に。

入所者自治会 太田明副会長:
無事、親子で入団できました

いわれなき差別 情熱注いだ野球

いわれなき差別を受け、ふるさとを追われ、家族と離れ、つらい日々の中で情熱を注いだ野球。患者たちは精いっぱい生きていた。

入所者自治会 太田明副会長:
ちょっとやぶになっていますね。あそこです

太田さんが指さした先には、コンクリート塀に開けた穴があった。太田さんが子どものころ、金づちでたたいて開けたそうだ。

入所者自治会 太田明副会長:
暴投したら、走って行ってあの穴に足をひっかけてボールを拾いに行きよった。ふふふ。もうしょっちゅう向こうに

白球が越えた隔離の壁の向こうには外の世界が広がっていた。

入所者の心の支え集めた展示会

歴史資料館のリニューアル1周年を記念した「私のそばにあった宝物展」。不自由な生活を強いられた中で、入所者それぞれが“心の支え”にしてきた大切なものを集めた。

入所者自治会 太田明副会長:
国の隔離政策によって奪われた、なくした家族との絆とか、ふるさととの絆を胸に秘めながらそれを生きる支えとして、生きてきた証しを、今回、展示しようと思いました。野球のおかげで精神的にも肉体的にも救われた面がありますよね

菊池恵楓園歴史資料館で開催中の「私のそばにあった宝物展」は、2024年2月末まで行われる。

(テレビ熊本)

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