1944年、アメリカ軍の攻撃を受け太平洋に沈んだ疎開船・対馬丸に乗っていた平良啓子さん。極限状態を乗り越え一命を取り留めたのもつかの間、故郷に帰ったあと地上戦も経験した。戦争を生き延びた啓子さんは、命ある限り平和を紡ぎたいと自身の体験を語り続けている。

「あなたは生きているんでしょう」呼びかけられている思いがして

平良啓子さん:
私の目の前に広がっている写真(遺影)が私を圧迫しているんです。(遺影を)見ると涙が出てくるんですよ。「あなたは生きているんでしょ?何しているの?平和のことで頑張っているの?」って呼びかけられている思いがして

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国頭村出身の平良啓子さん、88歳。
沖縄に戦争の足音が近づく中、当時、安波国民学校4年生(当時9歳)だった啓子さんは、祖母やきょうだい、そしていとこの時子さんと一緒に6人で対馬丸に乗り、長崎へ疎開することになった。

学童集団疎開の子どもたちをはじめ、高齢者や女性など1,700人余りを乗せた対馬丸は、1944年8月21日の夕方に那覇港を出港。

翌22日の午後10時過ぎ、アメリカ潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けた。

 眠りについていた啓子さんは、大きな爆発音で飛び起きた。

「時子どこに行くの」目の前で波に流されたいとこ

平良啓子さん:
「バーン」と爆発の音を聞いて、おばあちゃん、おねえちゃん、どこにいるの?と言っても家族が一人もいないんですよ。もう怖いです。どんどん燃えてくるし、船は傾くし。もう、どうしていいか分からないから、おばあちゃん、おねえちゃん、助けて、どこ行ったって言っても返事がないし

海に投げ出された啓子さんは一人歯を食いしばり、波に流されないよう耐えていた。

平良啓子さん:
小さな、からになったしょうゆ樽(たる)が浮かび上がってきました。そのしょうゆ樽に(掴まって)頑張って浮いていると、そのとき大きな波がバーンと寄ってきて、何か人間の女の子みたいなものが私にぶつかってきたんですね。なんと、いとこの時子でした

遭遇した時子さんと励まし合いながら、しょうゆ樽にしがみついていましたが…

平良啓子さん:
また大波がバーンとぶつかってきたときに、時子が波と一緒に引き込まれていったんです。「時子どこ行くの、時子どこ行くの」と私は一生懸命、時子を呼び続けました

時子さんは。啓子さんの目の前で流されていった。海には地獄のような光景が広がっていた。

平良啓子さん:
とうとう私のほうに寄ってくるのは、みんな子どもたちの死体でした

対馬丸事件では1,484人が犠牲に。

大波にさらわれた時子さんと兄は帰ってくることはなかった。啓子さんは大海を6日間漂流し、奄美大島の漁師に救助された。

一緒に乗った姉と義理の姉も無事だった。

「うちの時子は太平洋に置いてきたの?」このショックは心の中の痛み

対馬丸事件から約半年後の1945年2月、啓子さんは地元の国頭村に戻った。

平良啓子さん:
時子のお母さんに会うのがとっても怖いんです。そのときに言われましたね、時子のお母さんに。「啓子、あんたは生きて帰ってきたね。うちの時子は太平洋に置いてきたの?」って

平良啓子さん:
このショックは今も心の中に痛みとして持っているんです。時子は私が殺したんだと。私は被害者だと思っていたら加害者だったんだ

平良啓子さん:
私が殺したんでもないけど、戦争のせいなんだけど、(時子さんと)一緒に帰ってこなかったことが、時子のお母さんにとっては痛手ですよね

「私は軍国少女なんです皇民化教育を徹底的に受けた」

九死に一生を得て新たな生活を始めたのもつかの間、アメリカ軍が上陸し、地上戦が始まった。

啓子さんは母やきょうだいと山原(やんばる)の山に逃げ、日本が終戦を迎えた。1945年8月まで約半年にわたり、山中での避難生活を余儀なくされた。

戦争で家族と住む家を失った啓子さん。「国のため」と学校で教え込まれ残ったのは悔しさだけだった。

平良啓子さん:
私は軍国少女なんです。皇民化教育を徹底的に受けました。そして、大きくなったら従軍看護婦になりたい。傷ついた兵隊さんの手当てをしたい。これが女の子の憧れの職業でした

平良啓子さん:
大きくなったら従軍看護婦になるというのが、こういう夢を持たせるような教育を受けているから。なりたいと思っていました。訳も分からず

生きている私はみんなの代表 戦争が二度と起こらないように

死の海をさまよい命からがら生き延びた少女は、「平和をつくる教育」を願うようになり、教師の道へ進み始めた。

平良啓子さん:
先生になりたいと思っていたので、通信教育を受けて1級免許を取りました

小学校の教師を39年勤め、退職後は県の内外を飛び回り、対馬丸と沖縄戦の体験を語ってきた。

辛い記憶をたどる啓子さんを奮い立たせているのは、「絶対に戦争は許さない」という固い意志だ。

平良啓子さん:
だから私が生きる意味というのは、生きている私はみんなの代表で生きているわけだから、こういうことが二度と起こらないように、戦争をしないように

平良啓子さん:
そのために私は、あちこちで語り継いで訴えないといけないという気持ち。長いこと生きているのも生かされているのも、(亡くなった)子どもたちが「語れ、語れ」と言うから、私は語らなくてはならないから、生きなければならない

平良啓子さん:
生きている間はね、しゃべれる間、ボケない間は何としても言い伝えていきたいという気はありますよ。今後というのはわずかしかないけれども、その間に元気でいれば、正常でいれば、伝えておきたい

対馬丸の悲劇、そして地上戦。生命の重みを幼い身体に受け止めた啓子さんは、これからを生きる人たちに、命を大切に戦争のない社会をつくってほしいと願う。

平良啓子さん:
命があっての人生でしょ。命を大事にできないものは駄目。まず命優先。だから生きるために、幸せに生きるためには元気で、健康で、病気をしないで、頑張ることがモットーだから。頑張れよと言いたい

(沖縄テレビ)

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