「変わったことはありません」「何にもありません」
こんな調子で記者に語りかけるのが青木氏の常だった。

6月11日に亡くなった青木幹雄元参院自民党会長が政界で頭角を表したのは、90年代後半だ。当時は、朝から晩まで政府や党の幹部に張り付くのが政治記者の日常だったと言ってもいい。

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青木氏は、病魔に倒れた故小渕恵三元首相の後継を選んだ「5人組」の一人でもある。その密室政治は批判もされたが、幹部の発言にはそれぞれ重みがあり、その一言が政治の行方を決める力を持っていた。青木氏は、朝は国会近くの個人事務所で、夜は麹町の議員宿舎で記者に対応し、冒頭の言葉を最初に発することが多かった。

事務所には青木氏と関係の深い方々の写真が
事務所には青木氏と関係の深い方々の写真が

「深い人脈」と「調整力」

では「参議院のドン」とまで言われた青木氏の力とは何だったのかと問われても、即答出来ない。リーダーシップを自ら発揮するタイプでもなく、発信力もなかった。テレビ出演も嫌いで、むしろ目立たないようにしていた。政策に明るいわけでもなく「難しいことはわからん」とよくこぼしていだ。

小渕第2次改造内閣発足(1999年10月)
小渕第2次改造内閣発足(1999年10月)

積極的に動き回ることもせず、行動範囲も狭かった。国会か個人事務所、自民党本部、時々赤プリ(旧赤坂プリンスホテル)くらいで、週末も自宅に居ることを好んだ。地元・島根県に戻った際にも極力日帰りにして東京に戻ったほどだ。「極端な面倒くさがり」(青木氏周辺)だったようだ。

小渕第2次改造内閣で官房長官を務めた青木氏
小渕第2次改造内閣で官房長官を務めた青木氏

人格者であった、ということもない。短気で秘書を怒鳴ったり、無理な要求をする光景を何度も見たことがある。記者を前にした「面子(メンツ)」もあったのだろう。その出来事はいい思い出として、秘書との交流では欠かせない話題になっている。

敢えて言えば、その力の源泉は、深い人脈と物事を収める「調整力」だろうか。

事務所には故竹下元首相の写真が
事務所には故竹下元首相の写真が

竹下登元首相の秘書だったこともあってか、事務所には財務省や外務省をはじめとするトップクラスの官僚がたびたび訪れていた。その人脈は今も秘書らに引き継がれている。夜の会合を掛け持ちすることはなく、相手が誰でも最初から最後まで付き合った。議員バッジを外した後も現職、OB含めた各党の重鎮が事務所をよく訪れていた。

そうした自分の周囲にいる人たちを徹底的に大事にした。派閥の参院議員はもちろん国会職員、党職員、警護のSPやドライバーに至るまで、自分の知る人をとことん使った。排他的でシャイだとも言えるが、その深い人間関係が青木氏を支えてきたとも言える。当時の野党参院幹部との親しい関係は国会対応など随所で生かされてきた。その自身の働きを声高に言うこともなかった。「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう」は竹下元首相の有名な言葉だ。自民党の衆院議員よりも野党の参院議員を優先するような所があった。

青木氏と強い信頼関係があった故吉田博美氏
青木氏と強い信頼関係があった故吉田博美氏

官房長官は“異例の対応”

ポスト、とりわけ閣僚には全く意欲を示さない人だった。官房長官になったのは、派閥の盟友である小渕恵三元首相や大学の後輩でもある森喜朗元首相の頼みだったからであり、異例の対応だ。「頭が良いとろくなことがない」「出世は一番遅い方が良い」とよく言っていた。典型的な「党人派」で、同様に閣僚にならなかった故吉田博美元参院自民党幹事長とは最後まで強い信頼関係があった。

国会議員になった理由も、青木氏自身の国家観というのもあまり聞いたことがない。

中国・李鵬元首相と握手する竹下登元首相 青木氏が所属する竹下派(当時)は中国との関係も深かった
中国・李鵬元首相と握手する竹下登元首相 青木氏が所属する竹下派(当時)は中国との関係も深かった

取材の場で頻繁に聞いた言葉は「どうかなぁ」だ。否定なのか、逡巡なのか、答えたくないのか。どれもが当てはまるような、当てはまらないような、記者を煙に巻くような言い方だ。本音を悟られないための手段か、単なる口癖か。その両方だったのかもしれない。

一方で、大きな政治判断については「白紙です」という言い方をよくしていた。情勢を見極めるためにギリギリまで態度を留保し、決めたらぶれずに進むことが多かった。郵政民営化を掲げる小泉純一郎元首相が自民党総裁選に出馬したときも、郵政関連の組織票と小泉氏の国民的人気の間で悩み、最後は小泉支持に舵を切った。この結果、師でもある竹下元首相が作った派閥は低迷することになる。

竹下元首相の弟・故竹下亘氏
竹下元首相の弟・故竹下亘氏

現役を退いてから、腹心だった吉田博美氏、竹下元首相の弟の亘氏が相次いで亡くなり、その悲しみと派閥の低迷が青木氏の活力となっていたように思われる。毎週水曜に参院自民党の幹部が事務所に集まり、報告を受けていた。自身の後を継いだ長男の一彦氏のことも気にかけていた。2022年の参院選で一彦氏が3度目の当選を果たしたことで、その重責から解放されたようだ。

砂防会館別館に入る青木氏(2020年8月)
砂防会館別館に入る青木氏(2020年8月)

コロナ禍に見舞われたこともあるが、事務所に顔を出す回数は徐々に減り、政界への関わりも減り、好々爺になっていったとごく最近聞いた。古くからの友人と週に一度麻雀をするのが楽しみで「頭と指の運動だ」と話していた。

青木氏が現役を退いてから、当時の番記者で誕生日に合わせて食事会を開いたことが何度かあった。秋葉原近くにある鰻屋で、10数人の記者で青木氏を囲んだ。以前はかなり飲んでいたが、お酒はコップ半杯の日本酒だけ。つまみはほとんど食べなかったが、鰻には大量のタレをかけて食べていた。後日御礼に伺うと「当たり前のことだ」と言わんばかりに澄ましていた表情を思い出す。

国会近くの砂防会館にある「竹下・青木事務所」はその名前のまま、今後も活動を続けるという。

(FNN北京支局長 山崎文博)

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山崎文博
山崎文博

FNN北京支局長 1993年フジテレビジョン入社。95年から報道局社会部司法クラブ・運輸省クラブ、97年から政治部官邸クラブ・平河クラブを経て、2008年から北京支局。2013年帰国して政治部外務省クラブ、政治部デスクを担当。2021年1月より二度目の北京支局。入社から28年、記者一筋。小学3年時からラグビーを始め、今もラグビーをこよなく愛し、ラグビー談義になるとしばしば我を忘れることも。