2023年3月に亡くなった世界的音楽家・坂本龍一さん。その音楽の原点はどこにあったのか。
東京都立新宿高校の同級生として、激動の時代を共に駆け抜けた愛媛・松山市の元衆議院議員の塩崎恭久さん(72)が坂本さんを追悼し思いを語った。
そこには「自由を大切にし、抑圧されない中で、個性を発揮する」という、坂本さんの原点があった。

共に過ごした“激動の学生時代”

坂本龍一さんと塩崎恭久さんは小中高校と都内の同じ学校に通った。塩崎さんが中学2年生でブラスバンド部の部長をしていた時に、1学年下の坂本さんが入部してきたのが最初の出会いだ。

坂本龍一さんとの思い出を語る塩崎恭久さん
坂本龍一さんとの思い出を語る塩崎恭久さん
この記事の画像(10枚)

元衆議院議員・塩崎恭久さん:
彼は体が大きかったので金管楽器のバスを担当してた。口数は少なく練習にはあまり来なくて、
「出てこなくちゃだめじゃないか」と言ってもあまり出てこなくて、だけど本番ではちゃんと責任果たすと。あとで、当時からずっと芸大の先生について、作曲とピアノを習っていたというのを聞いて、なるほどなって思ってました

塩崎氏提供
塩崎氏提供

2人の関係が深まるのは新宿高校2年の時。塩崎さんが1年間のアメリカ留学から帰国し、1学年下だった坂本さんと同じクラスになった。

坂本さんは、塩崎さんがアメリカから持ち帰ったクリームやジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンなどのLPレコードからロック音楽に興味を持ち、2人は音楽や文学、社会や国家について熱く語り合い、互いに刺激を受ける存在になっていったという。

 

元衆議院議員・塩崎恭久さん:
僕は(留学で)1年下がって2年生の秋から一緒になったわけですけど、すぐ(塩崎氏が)生徒会長に立候補して当選した。その時から一緒にかなりいろんなことをやるようになって、外では全共闘が燃え盛っていた時期でもあり、新しいものが生み出される時期だったんですね。私の留学中、アメリカはロックミュージックの最盛期で、LPレコードで持ち帰ったロックミュージックを、僕の家に彼がよく聞きに来て興味深く聞いてましたね。僕も、彼の家に何度も行ったことがありますけど、本当に一番長く時間を共にしたのは家族でもない、坂本龍一だった

塩崎氏提供
塩崎氏提供

一方で、当時は学生運動が吹き荒れる激動の時代。全共闘の学生による東大安田講堂封鎖で機動隊が突入する前夜には、2人で安田講堂を訪れていたという。

元衆議院議員・塩崎恭久さん:
彼は本当に多感な人間で「(安田講堂に)行こう」っていうので、機動隊が入る前の日に安田講堂に一緒に2人で行きました。中に入って大阪から来た高校生とか、いろんな人と話をして、そして夜、我々は自宅に帰ったんですけど、次の日の朝、機動隊が入って。私は家にいましたけど、彼はお茶の水に行って、だいぶ頑張ってたようです

塩崎さんと坂本さんは高校でも生徒会活動などで共に改革に取り組み、高校3年の時には制服・制帽の自由化などを求め、校長室に押しかけるなどさまざまな経験を共にした。

元衆議院議員・塩崎恭久さん:
私がアメリカに行って大きく衝撃を受けたのが、教育の中身の違い、先生と生徒の関係、評価の仕方。生徒会では「学校とは何をするところなのか」という問題提起で、坂本君はそういうのに非常に敏感で、自由というのをものすごく大事にしてましたね。生徒会長を終わって3年生の秋かな。2年生、1年生と議論をする中で、「今のような5段階評価だけの教育で、先生と生徒も上下の関係でいいんだろうか」ということで、意見が一致した連中が校長室に押しかけていって、
学校はあの時10日くらいストライキで止まったかな。坂本も一緒だったんだけど、当日の朝、遅刻してきて、「なんで遅れたんだ」と言ったら、「ママが起こしてくれなかった」って話だったから

「音楽の道」と「政治の道」

高校卒業後、東京芸術大学に進学した坂本さんとの交流は、同じ新宿高校の同級生だった馬場憲治さんと3人の仲間で続いた。その関係は、何かあってもいつでも高校時代のように戻れる特別なものだった。

元衆議院議員・塩崎恭久さん:
我々、正直あまり勉強してなかったわけですけど、坂本も勉強してないわけ、一緒に遊んでんだから夜中まで、朝まで。ところが彼はすっと大学に、それも東京芸大に1番で入って、こっちは浪人ですからね。「お前なんだと!」っていいましたよ(笑)。だけどそれは彼の本当の姿であって、でも一方の全共闘の人たちと付き合うとか、そういう自由奔放なところも彼の本質であった。坂本は東京芸大で油画専攻の女性と1回結婚したんですね。その時の引っ越しは馬場君と僕と2人で、レンタカーで家財道具を奥さんの家から運んだりしましたよ。大学の3年の頃かな。いろいろそういう形で仲間として応援してきたんです。ちょっと行き違いもあって付き合いがブランクになった時もあったんだけど、彼がラストエンペラーでアカデミー賞でオスカーとったので、これは世界のサカモトになったのでお祝いしてやろうと2人で行って、それからまた元に戻ったんですよ。同級生というのは何かあってもすぐ昔の日々に戻れるという、そういう感じでしたよね

塩崎氏提供
塩崎氏提供

高校卒業後、坂本さんは音楽の道に、塩崎さんは政治の道へと進んだが、共に激動の時代を過ごした高校での経験はその後の活動にも大きく影響したと語る。
坂本さんが目指したのは「自由で抑圧されず個性を発揮できる」社会だった。

元衆議院議員・塩崎恭久さん:
彼は高校時代の影響はすごくあったと思います。やはり自由を大事にし、抑圧されない中で、それぞれの個性を発揮していくという。芸術は当たり前ですけど、それが抑え込まれてるいろんなことが随所に見られた中で、ああいうことがいろいろ起きてるわけですから。やっぱり壊さなきゃいけないものは壊す。そのあとに創っていかなくてはいけない。彼の場合はただ壊すのではなくて新しいものを創る力があるわけですから。ダメなものはやめて新しいものを創る、あるいは変えていくという、そのことを2人で学んだと思うんですね。当時、ベトナム戦争が激しい時でしたから「戦争はやってはいけない」というのを共通の認識として持っていて、そういういろんな共通の新しい流れを共有しながら、彼は作曲の道に行き、私は大学から日本銀行、経済をやり、政治家になって幅広く世の中を変えていこうとなった

今後二度と作られない“坂本龍一の音楽”

多感な高校時代を共に過ごした2人。天才的な音楽家でありながら純粋な心を持つ坂本さんは、塩崎さんにとって当時、弟のような存在だったという。

元衆議院議員・塩崎恭久さん:
兄弟みたいな感じでいたかなあと。僕が1年、歳が上ということもあって、酒の飲み方とか、彼が大学に入ってからスキーに一緒に行ったりもしたし、そういう時に教えてあげることも多少はあった。付き合い方で、こういう人とどういう付き合い方をしたらいいかわかんない、純粋だから彼は、わかんないところもあったりして。ものすごく能力のある天才なんだけど、やや弟っぽいところも僕にとってはあって、最近はあまり会えてなかったけど、いつでも元に戻れるんだろうなと思ってました

塩崎さんが一番好きな坂本さんの曲は「ラストエンペラー」だった。そして、坂本さんが最後に出したCDの曲からは、がんとの闘病にいた坂本さんの心境を感じ取ったという。

元衆議院議員・塩崎恭久さん:
この前出た最後のCD聞いたら、かなりぶっとんでますよね。宇宙みたいな、やはりそういう心境になってるんだなと、そういう意味ではショックを受けて、かなり先鋭的な作曲を試みてきたけど、今回聞いてみるとそれがボーンとさらに先を行った感じがして、深くいろいろ病気しながら考えたんだなと思って。亡くなったニュースを聞いた時には何ていうか、大きなものを失ったという気持ちと、楽になったのかなということも同時に感じた

坂本さんは9.11や3.11に衝撃を受け、「反戦」や「反原発」をテーマに活動を続けていた。坂本さんのその意思や音楽はこれからどう引き継がれるのか。
塩崎さんは、これからの混迷する世界情勢を坂本さんがどう表現するのか見てみたかったと語った。

元衆議院議員・塩崎恭久さん:
彼は9.11にものすごくショックを受けたんですね。あそこで元々考えてた「反戦、非戦ということを明確に、絶対的にこれは大事だ」ということになったんだろうと思うんですね。もう1つ、3.11で原発の問題と2万人余りの人が亡くなるというその心の傷をどうやって俺は音楽を通じて癒やすことができるだろうかと考えたんだと思うんですね。「反戦だ、脱原発だ」というのは誰でも言えることなので、やっぱりなんだかんだ言っても音楽ですよね。音楽は他の人が引き継いでいくといったって出てこないものだから、そういう意味で、ものすごい我々が失ったものは大きくて。ウクライナとか中国とか北朝鮮とか、いろいろある時代の中で、彼がどういう音を作り出していくのかという、そういうチャンスを逸したということなんですね。今まで彼が出してくれた音はCDで残ってるわけだから、我々は聞くことはできるんだけど、5年先に世界情勢がどうなってるかわからないけども、その時に坂本はどういう音を作るんだろうかと考えると、作れないよね。それは他の人ができることではないので。坂本のああいう音、あの感じは、もう過去のものとしてかみ締め続けるしかない

(テレビ愛媛)

片上裕治
片上裕治

テレビ愛媛 編成局長 1992年テレビ愛媛入社、報道部で警察、政治担当記者で現場取材を重ね、ニュースデスクを歴任。記者として福田和子事件、えひめ丸事故なども取材。