東日本大震災から12年が経った。

宮城県南三陸町を取材し続けてきた笠井信輔アナウンサーは、震災直後に津波の惨状や被災者の悲しみを伝えてから、毎年欠かさず現地を訪れ、この町の変化を見つめ続けてきた。

「津波が来る前の町より、津波に襲われた後の町の方が、南三陸は活気がある」

そう語る大人たちと、その背中をみて育ってきた子どもたち。

被災地が抱える現在の課題と、20歳になった若者たちのそれぞれの選択と、被災地における真の復興について、笠井アナウンサーが取材した。

復興していく町、一方で町を離れる若者

2011年3月11日。人口1万7000人ののどかな町・南三陸町は、津波にのみ込まれ、死者・行方不明者は831人に上った。

2011年 宮城・南三陸町
2011年 宮城・南三陸町
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12年前の記憶を伝えるように、そのままの姿で建つ防災対策庁舎。

高さ約16メートルの津波は、その庁舎を飲み込み、43人が犠牲になった。

防災対策庁舎
防災対策庁舎

現在、周りの建物はなくなり、震災遺構としてこの庁舎だけが残されている。

街の中心部は、護岸工事が施され約10メートルかさ上げされた。

震災前、1万7676人だった南三陸町の人口は、今年1月には1万1956人まで減少した。

その傾向は若い世代ほど顕著で、2010年の平均年齢は49.4歳、10年後の2020年には54歳にまで上昇している。

この町を“出る”選択をした20歳の決断

笠井アナウンサーが10年以上取材している美容室「ティアラ」。

美容室を営む日野茂美さんの長女も、町を出る決断をした1人だ。

笠井アナウンサーが日野さんと出会ったのは震災から3カ月後の仮設住宅だった。

建てて間もない自宅兼美容室が津波に飲まれ、全壊してしまったのだ。

震災当時の日野さんの自宅兼美容室
震災当時の日野さんの自宅兼美容室

莫大なローンと、8歳、4歳、1歳の3人の子どもたちを抱えながらの生活…。

しかし震災の翌年には、プレハブで美容室を再開し、仮設住宅で家族寄り添いながら暮らしてきた。そして7年後の2018年、自宅と美容室を新築。家族の夢を叶えることができた。

しかし、今年20歳を迎えた長女の湖々杏さんの姿は今、この家にはない。

「私と一緒で美容師の道に今進もうとしていて、仙台の方の学校に行って、2年間終わるんですが、本人の希望で就職は東京の方に行きたいと。仙台くらいならと思っていましたが、戻ってきてほしい半面、本人の進みたい道を応援してあげたいなというのもあるので…、複雑ですね」(日野さん)

戻ってきてほしい思いと、夢を応援したい思いに揺れる母。

仙台にいる娘の湖々杏さんは地元では達成出来ない夢について次のように語った。

「高校2、3年生くらいの時から思っていました。美容師の中でもヘアメイクというのをやりたくて。ドラマや映画、雑誌で自分もヘアメイクさんとして参加して、一緒にひとつのものを作り上げていきたいなって思いました。

自分がやりたいこと、なりたいことが、南三陸町でやっていくには無理があると思うんですよ。今、若い人も少ない状態なので。自分の将来を叶えるためには出ていくしかないのかなと思いました」(娘・湖々杏さん)

この町に“残る”選択をした20歳の決断

町を出て行く人がいる一方、残ることを選んだ人もいる。

現在20歳の菅原優真さんは、この町に残る選択をし、町役場で働いている。

海から100メートルほどのところにあった菅原さんの自宅は津波で流されてしまった。

その後、仮設住宅で6年間、4人家族で生活し、2017年に高台に住居を新築。

長男の優真さんはこの町に残る決断をした。

笠井アナウンサー:
どうして、南三陸町に残ると決めたんでしょう?

優真さん:
町外に出て生活をするというのも、選択肢のひとつにはあったんですが、町の成長にも携われる、特に町を運営する大きな仕事についてみたいというところから、今の職を選んで地元に残っています。

もともとは父親にあこがれて漁師を目指していたという優真さん。しかし、父親の学さんからはひどく反対されたというのが記憶に残っているという。

父・学さん:
漁師をやる上で、必ず津波はまた来るんですよ、絶対に。私は今回の津波で生き残れたんですが、もし息子に漁師をやらせて、(津波が来たとき)もし息子が亡くなったら…、多分私は耐えきれない可能性があるので…。

笠井アナウンサー:
家業なので、継いでほしいという思いもどこかにはやっぱりありますか?

父・学さん:
そうですね、それはあるんですが、最終的にやりたいとなった時には私は反対する気もないので。ただ私が元気でやれているうちは、どうしても津波で流されるのはオレだけでいいかなって思ってしまうんですね。
 

親としての葛藤…、一方の息子には震災後、町の発展を手助けしたいという思いがあった。

「震災後の方が南三陸町は明るくなったような気はします。ひとつの大きい問題が起きて、それを解決しようと一致団結したからこそ今、明るく南三陸町という町が進化したのかなと思います。
被災したことによって、より町に残りたいという気持ちが高まった」(優真さん)

「震災後の方が町は明るくなった」と語り、町の“新たな未来”を見据える優真さん。

一方で、12年前の記憶を形に残し、経験を共有しあう施設も新たに完成した。

経験を共有しその記憶から学び合う広場

去年10月1日に南三陸町にオープンした震災伝承施設「南三陸311メモリアル」。

南三陸311メモリアル
南三陸311メモリアル

展示されている、震災前の南三陸の街並みを再現したミニチュア模型からは、学校、港など、人の営みがそこにあったことが伝わってくる。

VTRが見られる部屋では、津波から生き延びた人々の証言から震災の教訓を学ぶことができる。

VTRを見ていると途中で次のような字幕が…。

「あなたが住む地域ではどのような自然災害が想定されますか?まわりの人たちと1分間、情報を出し合ってみましょう」

ただ見るだけでなく、自分の身に起きた場合に備え話し合い、自分で考える時間がもうけられているという。

その他にも、「あの頃に会いに行く 南三陸の暮らし展」という、震災前の町民の日常を撮影した数々の写真が展示されているコーナーもある。

人々が集まった会合やお祭りの写真まで、津波で失った日常がそこにはあった。

「この場所が震災にあった。でも今、地元に残っている人たちは、こんなふうに頑張っているんだと、他の誰かの経験談をつないでいく。この311メモリアルは大きな発信源であると考えているので、県外につなげていく努力をしていきたい」(優真さん)

震災を伝えてゆく、それが被災者である自分の責務だと優真さんは語る。

そして南三陸町では、教育現場でも新しい取り組みが始まろうとしている。

被災地の高校が全国募集 若い力獲得へ

生徒の9割が南三陸町の子供たちだという地元の高等学校、志津川高校(しづがわこうこう)。

宮城県志津川高校
宮城県志津川高校

震災前、413人いた生徒数は激減し、今は148人となっている。

そんな中、来年から「南三陸高等学校」と名前を変え、全国から生徒の公募を始めたのだ。
住宅街には学生寮が作られ、4月には東京、千葉、神奈川、山形から5人の生徒がやって来る予定だという。

笠井アナウンサーが、南三陸町の佐藤仁町長に聞いた。

笠井アナウンサー:
全国公募に踏み切った高校というのは成功する例ばかりではなく、結局は入学生が1人もいなかったということも聞くんですが、5人もの生徒を集めることができました。その方たちは、なぜ南三陸の高校に進学したいと、よその地域からやってくるんでしょうか?

佐藤町長:
オープンキャンパスをやったんですよ。
子供たちが言うのは「南三陸ってすごく災害の大きい町だった。その町が町民のみなさんの力でここまで再建できた。町民のみなさんってすごい、ぜひそういうところで高校生活3年間を送りたい」という声が圧倒的でした。

最初は里親制度をやろうかと思っていたのですが、それでは子供たちも緊張して息抜きにならない。家に帰った時くらいゆったりしたいが、里親制度ではなかなか(疲れが)取れないんですよね。それで急遽、寮の整備をということで始まって、2月に寮が完成したんです。

笠井アナウンサー:
立派な寮が建てられましたね。

佐藤町長:
震災後に作業員用のビジネスホテルができたんです。年数が経って作業員の方々はいなくなったので、そのホテルをどうするかとなった時、「寮に使えませんか?」と言ったら、「どうぞどうぞ」という話になって。

2階が生徒の部屋で、1階は食堂や勉強室などがあります。すぐ近くにショッピングセンターやドラックストア、スーパー、それから生涯学習センター、警察と消防もありますから、環境的にはバッチリです。

笠井アナウンサー:
最終的には3年間で20数名の方が入学すればいいという感じですか?

佐藤町長:
そうですね。24部屋ありますから、3年間で24人。頼もしいなと思ったのは、役場で面接したんですが、入学する1期生が「私たちが1期生として情報発信をして、次の子供たち2期生、3期生をここに迎えますから」と話してくれた。すごくありがたかったです。

――新たな取り組みがある中で、今後の町の展望はどう考えている?

佐藤町長:
震災後、人口もどんと減って、全く0からのスタートでした。そういう町をどうしようか、町民皆さんといろんな話し合いもしました。町の復興計画のひとつに自然と共生する町をつくりましょうというのがあり、そこに「エコタウンへの挑戦」というのがあります。

当時、このエコタウンへの挑戦というのを考えた課長がいるんですが、瓦礫だらけのまだ震災から4カ月しか経ってない時に、「エコタウンへの挑戦って何をやるの?」と聞いたら、課長は「電気がない、水道がない、情報がない、プライバシーもない…。こういう生活を我々は何カ月もやった。こういう町だからこそエコタウンへの挑戦、化石燃料に頼らない部分は絶対必要だ」という。いわゆる理念ですね。そこから広がっていった。

『自然と共生する町づくり』という理念を掲げたことによって、町民のみなさんが「じゃあ俺の産業の分野はこういうことでやりましょう」ということで取り組んでもらった。そういった取り組みが環境省からも評価をされて、2年連続大臣賞を受賞しています。
こういう一歩一歩の歩みですが、これからもこの南三陸町で自然と一緒になった町づくりを我々はしていきたいと思います。

――色々な話を聞く中で、震災の教訓を伝えていくために、テレビメディアに対して要望はある?

佐藤町長:
メディアの力ってすごく大きいと思うんですよ。この東日本大震災の放送を年に1回でも何回でも放送することによって、これから起きるであろう自然災害に、それぞれの地域の方々がどうやって自分の命を守るんだろうということの気づきになることに、メディアはすごく大事な要素があるのかなと思います。
ぜひこれからも、未来の命を守るためにメディアの皆さんの力が大きいということをお伝えしたいなと思います。


(「週刊フジテレビ批評」3月11・18日放送より スタジオ聞き手:渡辺和洋アナウンサー、新美有加アナウンサー)