現在の県議会が建つ場所にかつて「武徳殿」という建物が存在した。沖縄戦で焼失を免れ、長年、武道の鍛錬の場となった武徳殿に関する新たな資料が見つかり県立博物館・美術館に寄贈された。

城のような面構え“武徳殿”

県議会の敷地の一角にひっそりと佇む石碑。
かつてこの場所に空手をはじめとした武道の中心地だった「武徳殿」があったことが記されている。

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まるで城のような面構えの建物。
現在の沖縄県庁の建設に伴い1989年に解体されるまで現存した武徳殿だ。

長年、琉球警察や沖縄県警になってからも武道場として活用され警察官たちが日々、柔道や逮捕術の稽古に打ち込むいわば武道の聖地だった。

久高義久さん(72):
あー! 本当に懐かしいね

那覇市に住む久高義久さん(72)。剣道の段位は6段だ。

まだ、アメリカ統治下時代だった1968年に琉球警察の警察官となり剣道の特錬員として腕を磨いた。

久高義久さん(72):
ずっと武道ですよ。出勤したらまずは武道。もう武徳殿が目に入った時から体全体が剣道の世界に入るという風な感じですよ

強い精神力はここで作られた

復帰前はパスポートを持参して、県民大会などの全国大会に出場することも多かった久高さん。

沖縄を背負って勝負に挑むため、武徳殿で血のにじむような稽古を重ねた日々は今も決して忘れない。

久高義久さん(72):
どんな苦難に直面してもそれを乗り切る精神力というのはここで私は作られたと。ここで稽古をしてきたものは終生忘れないと思う。

時代とともに変遷 戦時下においては戦意高揚の場に

武徳殿はその時代、利用する人々によって様々な役割を担ってきた。

これは1945年5月、沖縄戦のさなかに撮影された武徳殿の写真だ。
10・10空襲や地上戦で那覇のほとんどの建物が焼失したが、武徳殿はわずかな焼損だけで戦禍を免れた。

アメリカ軍はその風格ある外観から「不滅の和風建築」と呼び、戦後、一時的に将校のためクラブとして利用していた。

この武徳殿に関する新たな資料がこのほど県立博物館・美術館に寄贈された。
北海道の収集家が見つけたのは1939年に開殿した武徳殿の完成を祝う式典のプログラム。

県立博物館・美術館 園原謙 主任学芸員:
(資料の内容は)戦前の話で沖縄の武道界に関わる資料で非常に貴重であると

資料は沖縄県が第33代の総理大臣で元陸軍の大将だった林銑十郎に、武徳殿の開殿式への出席を依頼した文書や糸満ハーレーの見学や首里城への訪問など、林が沖縄を訪れた際の行程表で当時の接遇の状況が読み取れる貴重な資料だ。

また、林銑十郎に対して県が中学校での講演を依頼する文書もあり、県立博物館の学芸員は戦争への士気を高揚させる狙いがあったと推察する。

県立博物館・美術館 園原謙 主任学芸員:
昭和14年沖縄戦が始まる6年前の話ですけど、戦時下という中にあって沖縄の学徒たちを鼓舞するという側面もこの資料から垣間見ることが出来るのかなと

戦時下においては戦意高揚の場となり、戦後のアメリカ統治下では将校クラブとなりその後、1989年の解体まで警察の武道場として存在してきた武徳殿。

建物の面影はすっかりなくなったが、沖縄が歩んだ激動の歴史を那覇の中心から見てきた貴重な建物だったのだ。

沖縄テレビ
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