「守れ祖国の防衛線」
近現代の戦争は凡そ「自衛」のために行われてきました。
大日本帝国がその防衛線を北は満州、南は南洋諸島に引いたように、独立国たるもの自らの判断で防衛線を設定します。
隣国ではそれを「核心的利益」と呼んだりしています。
ロシアにとってウクライナはまさに防衛線の内側の国だったのでしょう。
クラウゼヴィッツ曰く
ナポレオン以降の近代戦争を分析し「戦争論」を記したプロイセンの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツは、「戦争とは、政治目的を達成するための手段である」と喝破しました。
この記事の画像(5枚)第1次世界大戦後に結ばれたパリ不戦条約はそうした戦争を違法化しました。
「国家政策の手段としての戦争を放棄する」
にもかかわらず第2次世界大戦が勃発し、その終結以降も世界から戦火が絶えることがありません。国連憲章はその第2条で「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、慎まなければならない」としていますが、「慎まない」国が後を絶たないわけです。武力による威嚇又は武力の行使を永久に放棄している我が国にとっては実に心配なことです。
国破れて山河あり
国とは、国際法上、①国土(領域)、②国民(人民)、③統治機構(支配システム)の三つの要素を有する団体とされます。そのほか国には、歴史、文化、伝統などさまざまな要素が付随します。
国を守る=国防とは、それらを包括的に守ることを意味します。
ポツダム宣言の受諾によって日本は被占領国となり統治機構が崩壊しましたが、国土と国民は一定程度保全され新たな統治機構を得ました。
その後のめざましい戦後復興から、他国が侵攻してきたら白旗を掲げてしまうのが最善手だという考え方が長らく大手を振ってまかり通っていました。
占領国の主体がアメリカだから良かったのですよ。場合によってはいわゆる「固有の領土」を失い、あるいは国民も含めて他国に併合されることだってあり得たのです。
統治機構=権力者ではない
勝ち戦に国民は熱狂し、負け戦に国民は権力者への不信を募らせる。
国防といいながら領土を拡張することに国民はついて行けるのでしょうか。
国防といいながら国民の生命を損耗することを国民は許すのでしょうか。
国防といいながら守ろうとしているのが権力者の地位であることを誰もが目をつぶっていられるのでしょうか。
体制側(その統治機構における権力側)は常に自己の無謬性を主張します。
自由主義国家においては体制側が往々にして批判にさらされますが、権威主義国家では批判が体制側によって圧殺されるのが常です。
ロシア国内の反戦運動が世界に発信されることは暗闇に射す一条の光のように感じます。それだけに隣国には暗澹たる思いを禁じ得ません。
未だ世界は弱肉強食に満ちている
20世紀は列強諸国による世界支配と、社会主義国家による統治実験の終わりの始まりだったように思います。すべてが終わったわけではありません。なにかが始まったとも思えません。それでも権威主義から自由主義への社会、政治の変化は止められない流れだろうと考えます。
反動があるとすれば権威主義的な大国の膨張政策でしょうか。
守るべきもの、近くは自分や家族、遠くは世界平和とさまざまですが、それもこれも一人の人間が守り切れるものではありません。守ろうとする心と、守るための力を強く持たなければならない、とニュースを見るたびに感じます。
【執筆:フジテレビ解説委員 岡野俊輔】