7月29日、ウクライナ東部のロシアが実効支配を進めるドネツク州の捕虜収容所が攻撃され、ウクライナ兵の捕虜ら約50人が死亡した。ウクライナ側は「ロシアによる戦争犯罪だ」と主張しているが、ロシアも「ウクライナによるものだ」と主張し、互いに非難の応酬となっている。映像からわかることは、そこにいたウクライナ兵とされる捕虜の遺体は痩せ細っていたということだ。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻からまもなく半年。私たちは「戦争犯罪」の証拠や証言について多く耳にしてきた。「戦争犯罪」とは何か。様々なかたちがあるが、そのひとつが「一般市民への攻撃、殺害」である。今回、私たちがキーウやブチャでの取材で出会った人々が証言した「戦争犯罪」の一部をここに記録する。
「子供」と書かれた車
ウクライナの首都・キーウには、鮮やかな色の聖堂が多く存在する。爽やかなスカイブルーの外壁の「聖ムィハイール黄金ドーム修道院」もその一つだ。その目の前の広場は、5月ごろから様子が一変した。巨大な戦車が十数台並べられているのだ。いずれも車体は赤黒く焦げているロシアの戦車や軍事車両でウクライナ軍によって破壊されたものだ。ウクライナ軍がいかにロシア軍に打撃を与えているかを市民に伝えるための展示で、人々は自由に触ったり写真を撮ったりと観光名所のようになっていている。
焦げた戦車が並ぶ中、蛍光グリーンの「一般車両」が一台場違いに思えるほど目立っている。フロントガラスには銃弾の痕がある。そして車体には、大慌てで貼り付けたとみられる紙が4枚。それぞれに手書きで文字がひとつずつ書かれている。その4文字の単語は、ロシア語で「子供」という意味だそうだ。運転席のシートには赤黒い血の跡が今も残っている。後部座席には、寒かった時期なのだろうかダウンジャケットが置かれたままだ。この車の持ち主はブチャ在住で、3月14日にロシア占領地域からキーウ州内を逃げる途中に銃撃されたという。この車ともう一台、あわせて2台の車には大人3人と子供6人が乗っていたが大人2人が大きなケガを負ったとされている。「子供が乗っています」とアピールしている車がこんなにも激しい攻撃を受けたのかと思うと言葉に詰まった。彼らは大慌てでロシア軍が支配するブチャから逃げたのだろう。
この記事の画像(8枚)スマホ内の写真を調べるロシア兵
ブチャとキーウは車で一時間ほどの距離だ。2月下旬から1カ月ほど、ロシア軍はブチャを占拠していたとされている。街の中心部は隣街イルピンなどに比べると爆撃などの爪痕は少なく、一見普通に見える。自転車をこぐ子供がいたり、公園でくつろぐひともいるほどだ。
虐殺の被害者が多くいるとされる住宅街に向かった。かなりひっそりとはしていたものの、後片付けをする住民の姿も数人見かけた。よく見てみるとアスファルトの地面に黒いタイヤ痕が残っている。戦車だろうか。そしてすぐ脇には、ぐちゃぐちゃになった青い乗用車があり、車体にはロシア軍部隊を示すとみられる「V」のマークがあった。
その近くに住む44歳の女性、スビトラーナさんと出会った。家が被害にあっていることが一瞬わからなかったが、ロシア軍に攻撃されたため現在は土台だけになっている。この家を建てるまで15年ほどかかったという大切な2階建てマイホームが一瞬にしてなくなり、今はその裏にある小さな“離れ”で生活していた。
3月、地下室に身を潜めていたところロシア兵がやってきた。隠れている人数を数えこう言ったという。「携帯電話の写真を見せろ」。スビトラーナさんがスマホを差し出すとロシア兵は写真をチェックしはじめた。ちょうど趣味であるスキー場から帰ったばかりだったため、その写真ばかりが出てきた。スビトラーナさんは、「おかげで無事でした。もしかしたら(ウクライナ軍に情報を流すような)スパイを探していたのかもしれない」と話す。
その翌日の3月10日。スビトラーナさん家族は別の街に逃げた。
――もし逃げていなかったらあなたはどうなっていたと思いますか。
「お向かいの家族と同じに運命になっていたと思う。彼らは拷問され手や足が切られた」
拷問を受けたという家族は教師の一家だったという。憶測だが、ロシア兵は反ロシア教育の象徴として「教師」をあえて狙い虐待や拷問をした可能性もある。
自宅でロシア兵が“生活”の痕跡…「仕返しがしたい」
スビトラーナさんの家から3軒ほど隣に住むイヴァンさんは、明るい性格の30代の男性だ。英語を話し、映像を撮影するディレクターで「どうぞ入って!」といって私たちを敷地内に入れてくれた。
ブチャから避難をしたのは3月5日。イヴァンさんによると、その時点で「ブチャの9割はロシアに占拠されていた」という。4月に自宅に帰ってきたとき、家は様変わりしていた。
兄弟の車はめちゃくちゃに破壊されていた。さらに軒先にはタイヤ痕、おそらく軍事車両のものだと思われる(衛星写真で確認したところ、自宅の駐車場にロシアの軍事車両が乗り入れているのがわかったという)。軒先には装甲車のドアの部品が落下していた。私も持ってみたが、かなり重くて持ち上げるのがやっとだった。
家の中の被害もある。天井に銃で撃ち抜かれた跡があったのと、テレビにはおそらくスクリュードライバーで傷つけたかのように「ウクライナに行こう」と書かれていた。
ロシア兵がここを拠点に生活していたのは間違いない。そう確信した決め手は、庭先に落ちてあった「ロシア兵が食べ終わった弁当容器」だった。5カ月経った取材当時でもそこにあり、袋に書かれた星形のマークから、ロシア軍が兵士に支給しているものであろうということが分かる。
自宅で起きたことを淡々と説明してくれるイヴァンさんに尋ねた。
――もし逃げていなかったら?
「間違いなく殺されていた。私は若いし、愛国者だから」
――ロシア兵が生活した自宅に戻り住み続けるのはどんな気分ですか?
「複雑な気持ち。ロシア人の友達もいたしロシアの領土がほしいわけではない。でも……ロシアに仕返しがしたい」
ブチャでの虐殺を巡っては、ロシア側が「ウクライナ側のでっち上げだ」と国連などで主張している。しかし、これらが「多くの人に知ってほしい」と言って顔と実名での取材に応じてくれたブチャの人々から語られる事実なのだ。
(取材:中川真理子 撮影:米村翼/ニューヨーク支局)