「1インチも東方へ踏み込まない」という“約束”

今回の「ウクライナ危機」は、北大西洋条約機構(NATO)の問題で米国が約束を反故にしたことをプーチン大統領が遺恨に思っているようなので、局面打開は容易ではなさそうだ。

今回の危機をめぐって、ロシアのプーチン大統領は一貫して「北大西洋条約機構(NATO)の不拡大」を要求すると共に、米国が「約束を破った」と非難している。

アメリカとの遺恨…局面打開は容易ではなさそう
アメリカとの遺恨…局面打開は容易ではなさそう
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その「約束」とは、ベルリンの壁が崩壊しドイツが統一したときのこと。米ソの間で統一後のドイツのあり方を協議する中で問題になったのが旧東独での軍事力の展開だった。ソ連は旧東独にNATO軍が進駐すると、さらにその先東欧の国々に勢力を拡大することを懸念したので、米国が「NATO軍の東方不拡大」を約束したと言われた。

当時この問題の処理にあたった米国のジェームス・ベイカー国務長官は、1990年2月9日にソ連のゴルバチョフ書記長と会談した際にこう言ったとされる。

「最後に、NATOは米国が欧州に存在することを保証する仕組みなのです。もしNATOが消滅するとその仕組みも無くなります。であれば、NATOの枠組みの中で米国がドイツでその存在を継続することは、NATOの軍事的管轄が東方(eastern direction)へ1インチでも広がらないことを保証する意味で、ソ連にとってだけでなく欧州諸国にとっても重要なことだと理解するのです」(ゴルバチョフ財団に保存され、ネット上に公開されている会談記録より)
 

この発言は、米国が引き続きドイツに駐留して、NATOの東方への拡大を防ぐことを保証したものと考えられ、「1インチも東方へ踏み込まない発言」として当時広く伝えられたが、実は公文書には何ら記述がないのだ。

言ってみれば口約束で、公式の文書として残っていないのでは拘束力は怪しい。それに「東方」という表現は「旧東独」のことなのか「東欧」までも含む言葉なのかもはっきりせず、米国やNATO諸国はこの発言を重視しなかった。

その後ソ連が崩壊し、「約束」をした相手側の正当性も不透明になった1999年、NATOはチェコとハンガリー、ポーランドの旧東欧3カ国の加盟を認め、さらにこれまでに旧ソ連の支配下にあった11カ国の参加を得て「東方」への拡大を続けている。

限定的にでもウクライナへ侵攻するのでは

そして今度は、ロシアと国境を接したウクライナがNATOへなびきだしたのだ。

ウクライナでは、ロシアの影響を脱するためにもNATO加盟を求める声が強く、2019年にゼレンスキ現大統領が就任すると加盟への動きを加速させていった。

13日 米・バイデン大統領とウクライナ・ゼレンスキ大統領が電話会談
13日 米・バイデン大統領とウクライナ・ゼレンスキ大統領が電話会談

具体的には、2020年6月にウクライナはNATOの「強化機会パートナーシップ(EOP)」の地位を付与された。
EOPとなると、NATO軍と共同作戦など緊密な連携ができるもので公式加盟に道が開かれる。

さらに2021年4月には、やはり旧ソ連から独立しNATOに加盟したリトアニアの外相が記者会見で「ウクライナの NATO加盟を支援するアクションプラン(MAP)の適用を申請する」と語り、こうした中で同年6月にウクライナ海軍は黒海でNATO海軍との共同演習を行った。

ロシアがウクライナ国境付近に軍隊を集結し始めたのはこの頃のことで、明らかにウクライナのNATO接近に反応したものと考えられる。

ロシアにしてみれば、ウクライナが加盟するとNATOの矛先が直接ロシアの脇腹に突きつけられることになるわけで、到底容認できないことだろう。

ロシア軍の軍事演習(ウクライナ国境周辺 1月21日公開)
ロシア軍の軍事演習(ウクライナ国境周辺 1月21日公開)

1月24日にアップした小欄でも紹介したように、米国の保守派の論客で孤立主義者のタッカー・カールソン氏もロシアの主張に理解を示し、自身のフォックス・ニュースの番組でこう言っている。

「もしメキシコが中国に軍事的に支配されたらと考えてみてください。我々(米国)は当然、それを疑いもない脅威と受け取るでしょう」

米国が「1インチ」の約束をした当時、プーチン大統領は東独駐在のソ連国家保安委員会(KGB)要員で、事態の経緯を身をもって承知していたはずだ。その「約束」を米国が反故にしたことを誰よりも遺恨に思っていることは容易に想像できるので、今回米国側が相応の譲歩をしない限りは限定的にでもウクライナへ侵攻するのではなかろうか。

【執筆:ジャーナリスト 木村太郎】
【表紙デザイン:さいとうひさし】

木村太郎
木村太郎

理屈は後から考える。それは、やはり民主主義とは思惟の多様性だと思うからです。考え方はいっぱいあった方がいい。違う見方を提示する役割、それが僕がやってきたことで、まだまだ世の中には必要なことなんじゃないかとは思っています。
アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー出身。慶応義塾大学法学部卒業。
NHK記者を経験した後、フリージャーナリストに転身。フジテレビ系ニュース番組「ニュースJAPAN」や「FNNスーパーニュース」のコメンテーターを経て、現在は、フジテレビ系「Mr.サンデー」のコメンテーターを務める。