今シーズン限りで現役を引退した松坂大輔さん。

12月12日放送の「ジャンクSPORTS」(フジテレビ系)に初登場。引退後、バラエティ番組初出演となる松坂さんに、VTRで数々の偉業を振り返りながら、今だからこそ語ることができる現役生活について聞いた。

“平成の怪物”23年間のヒストリー

今年10月に現役引退をした“平成の怪物”。

1998年、高校3年生で公式戦無敗44連勝、甲子園春夏連覇も達成。しかも決勝戦の大舞台でノーヒットノーランの偉業を成し遂げた。

こうして一躍スターになった松坂さんは、横浜高校からドラフト1位で西武ライオンズに入団。デビュー前にも関わらずその人気は一気に加速する。

迎えた1999年のデビュー戦は、剛速球で日本ハムファイターズの主砲・片岡篤史さんを見事三振に討ち取り、鮮烈なデビューを飾った。

同じ年、当時5年連続首位打者で乗りに乗るイチローとの初対決は日本中が注目した。そのイチローから松坂さんは3打席連続で三振を奪った。

こうして「今まで自信が持てなかった。今日で自信から確信に変わった」という松坂さんの名言が生まれる。

この年、松坂が口にした「リベンジ」という言葉も流行語大賞を受賞。同年代(1980年4月2日から81年4月1日生まれ)選手の総称を“松坂世代”と呼んだ。

勢いはとどまることを知らず、その後も高卒1年目から史上初の3年連続で最多勝を獲得。

さらに2004年には自己最多の1試合で16の三振を奪った。この年、最優秀防御率を獲得し、プロ入り初の日本一に輝くと、2006年には当時史上最速で100勝目をマーク。

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規格外の怪物は日本を飛び越え、世界の舞台でも伝説を残した。

2006年第1回WBCでは、日本代表のエースとしてチームの優勝に貢献。MVPを獲得すると2007年には、当時史上最高となる約60億円の入札額でレッドソックスへと移籍し、メジャー1年目にしてワールドシリーズで優勝。

2009年にはWBCの連覇を果たし、2大会連続でMVPを獲得。しかし、その後はケガと戦いながら歩んだいばらの道となった。

2015年に日本球界へ復帰するが、故障でこの年の登板なし。2018年、ケガに苦しみ続けながらも投げることを諦めなかった松坂は「カムバック賞」を受賞。

そして2021年10月、23年の現役生活に終止符を打った。

引退会見では「一番良い思いとどん底を経験した僕みたいな選手はなかなかいないかもしれないです」と語っている。

“二刀流”も可能だった?

スタジオには、横浜高校時代に一学年下の松坂さんとバッテリーを組んでいたという上地雄輔さんも登場。

上地さんが高校3年生の時に、今でも忘れることができない思い出があると明かした。

それを上地さんは「記憶が飛んでいるのか、甲子園に行った覚えがない。大輔さんが何かやっちゃった気がします。変なところに球を投げた」とニヤリ。続けて、「サヨナラ負けして、甲子園に行けなかった。その時のピッチャーが松坂大輔です」と話すと、松坂さんは苦笑する。

「覚えていますね」と松坂さん。「ずっと忘れることはない。本当に申し訳ありません」と“先輩”に謝罪。

番組MCの浜田雅功さんから「ねちねち言われたりした?」と聞かれると、松坂さんは「ないです」ときっぱり。「みんなに謝ったのですが、『この悔しさを糧にお前らの時は甲子園に絶対行けよ』と言ってくれました」と振り返った。

日本、メジャーと数々の記録を残してきた松坂さんに、西武時代からの大ファンだというゲストの武井壮さんは「“二刀流”で行けたのでは?」と質問を投げかける。

松坂さんも「バッティングは得意でした」、上地さんも「高校時代は4番でしたから」と“二刀流”も可能な実力を持っていたと話す。

初打席はプロ入り2年目で、2000年のイチロー擁するオリックス戦だった。2アウト満塁の大事な局面に代打で出場すると、センター前に2点タイムリーを放つ。

2006年には3割3分3厘を記録。セ・パ交流戦で思い出の地・甲子園でホームランを放つなど、ピッチャーでありながら驚異のバッティング技術を見せつけていた。

さらに強豪ひしめくメジャーでも投打で活躍。2007年10月の世界一を決めるワールドシリーズ第3戦ではピッチャーとして3安打5奪三振と好投。バッターとしては満塁のビッグチャンスで、レフト前に2点タイムリーを放ち、ワールドシリーズでの日本人投手初勝利を自らのバットで引き寄せた。

ちなみに、レッドソックスの投手がワールドシリーズで2点タイムリーをマークしたのは、伝説のサイ・ヤングとベーブ・ルースに続く史上3人目で、約90年ぶりの歴史的快挙だったという。

そこで現在“二刀流”としてメジャーで活躍している大谷翔平選手の印象を聞くと、松坂さんは「次元が違います。人じゃない」と“レジェンド”をうならせた。

あまりの熱狂ぶりに“影武者”登場

1999年、松坂さんのプロデビューに沸いた日本球界。松坂さんが動けばカメラやファンも大移動した。

西武ライオンズ時代の先輩である松井稼頭央さんは、当時の様子をこう話す。

「大輔が入団したことで、これだけファンの方が来るのかと。メイン球場に移動するとき、ファンにもみくちゃにされて、道が全部埋まっているくらい波のように(人が)動いていた。どの球場に行っても大輔が登板すると満員になる、僕が入団した当時と比べたら想像がつかない」

常に大勢のファンと記者、カメラに囲まれていた松坂さん。時にはダッシュして逃げ切る場面もあったが、そんな中で「影武者」が登場したと松井さんは言う。「谷中(真二)が大輔のユニフォームを着て移動していた」と告白。

松坂さんの安全な移動のために“ニセ松坂”を用意し、ファンの目をくらませていたのだ。

松坂さんは「ピッチャー陣が休むプレハブ小屋みたいなところがあって、囲まれてしまい全く動けなくなった。当時のコーチが谷中さんに『お前、背格好似ているから松坂のジャンパーを着て先に走って次の練習場向かえ』って。谷中さんも嫌だったと思います」と苦笑する。

顔を隠して谷中さんが“影武者”として道をつくってくれたおかげで、「ガランとしたところを投手陣が歩いて次の球場に向かいました」と話し、このエピソードにスタジオは爆笑。

そして松井さんは「アピールの場が増えたのは大輔のおかげ」と松坂さんの注目度のおかげで、恩恵も受けていたという。

一方で、レッドソックス時代のチームメイトで、松坂さんがプロ入りしたときには横浜ベイスターズでピッチャーとして活躍していた斎藤隆さんは、そう考えてはいなかった。

もともと横浜への入団を希望していた松坂さんに対して、斎藤さんは「高校生にビクついているわけではないけど、来るとなると…」と、エースの座を奪われないかヒヤヒヤしていたという。

斎藤さんが「プロとしてアマチュアにそんな思いを抱いたのは最初で最後」と話すほど、松坂さんは脅威を抱く存在だった。

しかしドラフトで横浜は外れ、交渉権を西武が獲得。斎藤さんは「(ローテーションの)1枠がなくなるから死活問題だった」とドラフトの結果にホッとしたと話す。

改めて浜田さんが「横浜に行きたかった?」と聞くと、松坂さんは「横浜高校で3年間育ててもらったという思いも強かったので、ベイスターズ入りが一番良い流れかなと当時は思っていました」と振り返る。

だが、浜田さんから当時の西武の監督、東尾(修)さんが当てた瞬間の気持ちと問われると、少し考える松坂さん。「サッと言われへんのかい!」と浜田さんからツッコまれながら、「ジャイアンツと西武のファンだったので、全然嫌じゃなかったです」と明かした。

「最後の1球は俺によこせ」恩師の怒り

横浜入りを希望していた松坂さんを説得し、西武への入団を決断させたのが、現役時代200勝投手で、元西武ライオンズの監督、東尾さん。

松坂さんプロ入り当時の思い出を「ゲームに入ったら自分の世界に入って言うこと聞かない。『チームで試合やっているんだからチームのために考えて投げろ』とやかましく言った」と振り返る。

チームが勝つことを第一に考えるように教えたそうだが、バッターとの真っ向勝負に松坂さんはこだわった。

そんな松坂さんに“どうしても許せないことがある”と怒りをあらわにする東尾さん。

実は、東尾さん自身が現役時代に200勝を達成した際の記念ボールを、松坂さんの入団時に渡していた。そして、200勝を達成した暁にはその記念ボールを東尾さんにあげる約束になっていた。

しかし、日米通算170勝で引退した松坂さん。引退会見でも「自分自身が200勝してお返ししたかった」と悔やんでいた。そこで東尾さんは代わりにあるお願いをしたが、事件が勃発してしまう。

「引退試合の日に大輔に電話して『最後の1球は俺によこせ』って留守電入れたのに無視しやがった。(連絡は)ない。ボールも届かない」

こう東尾さんが嘆くVTRを見た松坂さんは「ずっと気にしていた。200勝のボールをお返ししよう、お孫さんに託そうと思っていた。ただ最後の試合に使った球は2球あるんです。初球と最後の球」とにんまり。

だが、「最後のボールは自分で残しておきたいので、初球のボールを東尾さんに…」と切り出すと、「ちゃんと渡してください!」と浜田さんからぴしゃりと言われてしまう。

さらに、松坂さんは高校時代に東尾さんを怒らせてしまったというエピソードを明かす。

「入団交渉をする中で、両親と焼き肉店に招待されて、『叙々苑』と聞いただけで舞い上がって。でも気を使って“お肉を焼かないと”と思ってしまい、高校の寮で焼き肉を焼く要領でお皿のお肉を全部鉄板の上に流し入れるのをやってしまった」

松坂さんのその行動を東尾さんは「お前が食べてきた肉と違うんだよ」と咎め、松坂さんは「親の前で野球のことじゃなく、お肉の焼き方で怒られたことは今でも覚えている」と笑った。

豪快な空振り三振「どんだけこすんねん!」

続いては、元日ハムの主砲・片岡篤史さんがスタジオに登場し、「どんだけこすんねん!」と22年の時を経て松坂さんに直接物申した。

それは松坂さんのデビュー戦でのこと。当時、片岡さんは開幕から打率5割と絶好調で、松坂さんとの対決前には「高校生にプロの厳しさ見せたろうや」と豪語していたという。

そんな中、迎えた第一打席で155キロの速球に片岡さんは豪快な空振り三振。この映像は松坂さんが活躍するたびにテレビでこすられ、今でもその映像を見かけるときがあるという。

「2ボール1ストライクからのスライダー。あれ見た時はビックリした。これは高校生の球じゃないと。面と向かって話すのは今日が初めてなんですけど、98年夏の甲子園で松坂からPL学園が7点取ったということはPL学園が(あの球を)打ったんだと。後輩がこんな球、打ちよるんかと思った」と片岡さん。

続けて、「2ボール2ストライクになったので、次は絶対に真っ直ぐがくると思って。真っ直ぐを空振りしたことはほぼなかったし、開幕戦は4打数4安打の絶好調!あの高めの球はストライクに見えて、タイミングもばっちりだったのに、あの空振り。コケて恥ずかしかったのに、(松坂は)軽い足取りでベンチに戻って行った。それを後ろから見ながらすごいなって思った」と振り返り、「それくらい松坂君との対決は思い出に残っている」と語った。

この熱弁を聞いて何回もこすられているのは「仕方がない」と浜田さん。空振りのイメージが強い片岡さんだが「結構打っている」と話し、松坂さんも頷く。

2人の対戦通算成績は打率2割8分3厘、ホームラン2本。

この結果に片岡さんは「僕が打っているビデオ映せっちゅうんすよ」と声を大にする。

2001年に松坂さんから2本のホームランを放った片岡さん。その時のことを松坂さんは「僕は打たれているイメージの方が強い。ライトに打たれたホームランも覚えていますが、レフトのホームランの方がよく覚えている」と話した。

コーチ、監督はやらないの?

最後にゲストから3つの質問を松坂さんに。

未来の“野球少年”の参考のために、と上地さんは「メジャーの年金」について質問。松坂さんはこの質問に「ジャンクSPORTSらしい…」と笑う。

メジャーには「MLB年金制度」があり、メジャーでプレーした選手は62歳から年金をもらうことができる。

番組調べによると、満額だと毎年約2000万円が62歳からもらえる。満額の条件は10年間1軍でプレーすること。松坂さんの場合、8年間プレーしたため、80%の約1600万円という計算になるという。

続いて、来シーズン中日2軍監督を務める片岡さんは「コーチ、監督とかやらないの?」と質問。「若い時よりはあります。(若いときは)全くなかった」と答える松坂さんに、片岡さんは「キャンプ取材とかいろいろあるかもしれないけど、プライベートで中日2軍キャンプに来て。差し入れをたくさん持ってきて」と誘った。

メジャーリーグファン・山本萩子さんから「今後挑戦したいこと」を聞かれた松坂さんは「YouTubeにも興味はありますが、現役の時は球団から禁止されていたのでバイクの免許を取ったり、船舶免許を取ったり」と話し、浜田さんから「遊ぶ気満々!」とツッコまれる。

周囲からは「でっかいクルーザーとか買いそう」と言われると、松坂さんは浜田さんのおごりでアスリートたちが欲しいものを“詰め放題”する番組企画で買いたいと話し、最後に浜田さんを慌てさせた。

(『ジャンクSPORTS』毎週日曜日夜7:00~8:00放送)

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