ニューヨークを拠点に、世界で活躍するピアニスト、西川悟平さん(45歳取材当時)。
ピアノを弾く時の指使いは、独特だ。

脳の神経疾患「ジストニア」で、左手で動くのは親指と人差し指の2本だけ。そのため、「7本指のピアニスト」と呼ばれている。

西川さんは、ピアノ初心者ならば誰もが弾いたことのある「きらきら星」に特別な思いがある。
実は、絶望の淵から救ってくれた曲でもあるのだ。

後編では、母・そして子どもたちへの恩返しでもある日本国内での演奏と、このコロナ禍でこそ始めた、新たな演奏をするピアニストの姿を追った。

全2回(#1「」はこちら)

奇跡の7本指のピアニスト

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今では指は7本まで動くようになり、再びスタインウェイホールやカーネギーホールなどの大舞台に立つまで復活した。

海外では「奇跡の7本指のピアニスト」と賞賛され、アメリカだけでなくヨーロッパへも活動の場を広げている。

そして、デビューから20年を迎えた節目に始めた、母国・日本に長期滞在しての演奏活動。
特に、母親ゆかりの鳥取・倉吉という土地に対しては、思い入れがあると言う。西川さんは、癌で亡くなった母親・美子さんと、最後にこの場所を一緒に歩いたという。

母親・美子さんは、絶望に打ちのめされていた頃、西川さんを救ってくれた、もう一人の人物だ。ニューヨークから連絡を欠かしたことはなかった。

「母というよりは、姉ちゃんみたいな存在で、馬鹿がつくほどポジティブな一面がありましたので、『休憩しとったらええんちゃう?』とか(言う)。一緒に泣かれたりとか、『大変だね』とか言われちゃったら、一緒に『大変だよね、なんで僕がこんな思いをしなきゃ…』となったんでしょうけれど。後で聞いたらすごい悩んでくれてたらしいけど、僕の前では明るかったです」

美子さんについて、こう語る西川さん。

明るく振る舞ってくれた母の態度に救われたというが、復活する姿を見せる前に、母にも病が襲いかかった。

思い出の場所で母への恩返しを

西川さんが最後に行きたい場所を尋ねると、美子さんは家族の思い出の場所、鳥取と答えたという。

だからこそ、ここでのコンサートは、母親への恩返しでもある。

西川さんは、「まさかその数十年後に自分がピアノを弾いて、こんな大きな所で演奏させてもらえるなんて思ってなかったから、30年前の僕に言ってあげたい。『すごいことが起きるんだよ、まあ見てな』って。母が生きてこれ見たら、腰を抜かしたと思いますよ」と、笑顔で語った。

倉吉での演奏会が母への恩返しに加え、つらい自分を救ってくれた子供たちへの恩返しも忘れてはいない。
西川さんは、忙しい日程を縫って、各地の小学校への訪問活動も行っている。

「“僕はついてない、7本しか動かない、6本しか動かない”って泣いてたときは、何もいいことがなかったけど、“7本もあるんだ”と思ったら、この病気が翼になって、今世界中でピアノを弾いて回ってるんだよ」

病気だった時のつらさや、負けない強さを伝えるだけが目的ではない。
西川さんは、今の自分の姿をみてもらうことで、子供たちに教えたいことがある。

「今日はやりたくないなーって思ったとき、(練習は)15分だけと思ってやってたら、10年間1日も欠かさず練習してた。だから君たちも頑張ってね」

ピアニストになりたいけれど踏み出せないという子供に対して、そっと背中を押す。
あの日自分を救い、前へ進ませてくれた「きらきら星」。
今度は自分が子供たちにとって、この曲のような存在になれたらという、西川さんの思いだ。

「子供たち、もしくは若い次世代にお伝えしたいのは、絶対無理っていうのはないかもしれないと思う。絶対無理と思ったとしても、頭の中にやりたいことがある、思い描いた夢がある、そうしたらしばらく頑張ってほしいなと思う」

小さなピアニストの挑戦

西川さんの思いを受け止めた子供たちからは、たくさんの手紙やメッセージが届く。

中でも印象に残ったものは、兵庫県香美町に住む小学6年生(取材当時)の荒川舜(しゅん)くんからのはがき。地元で開かれたコンサートで、西川さんの演奏を聞き、大きな影響を受けたという。

4歳からピアノを習ってきたが、これまであまり前に出るタイプではなかった。
しかし、西川さんの姿を見て、6年生を贈る会でのピアノ伴奏に名乗りでるなど、積極的になったという。

そして、6年生を送る会での伴奏が自信になったのか、舜くんはさらなる挑戦のため、鳥取空港へ向かった。舜くんには、「ストリートピアニストになってみんなを楽しませる」という夢がある。

空港に自由に弾けるピアノがあると聞き、お母さんに連れてきてもらったのだ。
舜くんは、勇気を出して、見ず知らずの人の前で演奏を披露した。最初は立ち止まる人もなく、難しさを痛感したころ、徐々に人が集まり、演奏終了後には拍手も起こった。

そんな舜くんの姿を西川さんに見てもらうと、「優秀じゃないですか。伺った話によると、人前に出るような子じゃなかったと。また時間が経って大人になってくると、熟成したまた違った音楽になってくると思う。こんなところで弾いて堂々として立派ですよ。大したもんです」と嬉しそうに話す。

西川さんは、その堂々たる姿に感心したようだ。

思いがけない問いかけ

西川さんに影響を受け変化を見せる子供がいる一方で、西川さんも子供たちのおかげで今まで気付かなかった気持ちに気付き、驚かされることがあったという。

それは、大人だったら絶対にしない、子供たちからのこんな問いかけだった。

『西川さんは、明日ジストニアが治るとしたら治しますか』

この質問に西川さんは、すぐには答えられなかった。治りたいはずだが、病気があったことでできるようになったこともある。
考えた結果、「治したいけれども、分からない」と西川さんは答えた。

将来、迷いやつらいことが待ち構えていても、自分なりのきらきら星を見つけてほしい。
そう願いながら第二のふるさとでコンサートへ臨む西川さんだったが、早くも次の壁が立ちはだかりつつあった。

2020年の春は、かつて私たちが経験したことのない春となり、新型コロナウイルス感染予防のため演奏会が中止に。

しかし、こんなことではめげず、即座にネット配信に切り替えた。

「皆さんお待たせしました。西川です。今日は兵庫県の養父市でコンサートをする予定が、なんとコロナさんのおかげで大キャンセル」と視聴者に挨拶。

かつての異国での絶望の日々、そして滑らかに弾けるまでの7年間を思えば、こんなことでくじけてはいられない。

海外やちまたで流行っているという「ピアノと除菌拭きのためのコロナウイルス練習曲」を披露するなど、ユーモアを交えながら配信を続ける。

「コロナのせいですべてキャンセル。そうなってくると、配信するしかない。そしたらなんと、楽しかった。やってるうちにチャットでお客さんとお話したりとかして、むしろ今みたいなときのためにエンタテインメントってある気がするんです」と、前向き姿を見せた。

苦境でもネット配信でメッセージを

絶望の淵を経験したことのある西川さんだからこそ、困難を乗り越える力は、自然と鍛えられていた。
ライブ配信を終えると、近くのお寺で護摩行に参加。ウイルスの収束と、倉吉でのコンサート成功を祈願した、と話した。

しかし2020年4月、5月に予定されていた思いの詰まった倉吉のコンサートも、開催が困難になり、9月まで延期することが決まった。

子供たちへ直接メッセージを伝えることもできない。しかし、中止ではなく延期、と前向きにとらえて東京での拠点としているスタジオからネット配信を続ける。

ライブで配信を見ている人たちからは、チャットで即リアクションが届くので、和やかに会話をしながらの演奏だ。

予定していたコンサートが中止になると、収入はゼロになってしまう。けれどネガティブな考え方はしないのが、西川悟平だ。

「絶対収束する日が来るので、その日に、『コロナだから何もできなかったから仕方ないじゃん』っていう人生か、『コロナだったけどそのおかげで、金はないけど実力は増えたよ』、みたいな、実力の貯金が増えたよって言って笑えて、いい演奏が出来る日がくればいいと思います」と笑顔で話す西川さん。

配信の最後に弾いたのは、きらきら星。
やはり、西川さんにとって原点はきらきら星だった。

どんなに小さくても、誰もが力の源になるものを心に持てば、困難は乗り越えることができる。
誰も予想しなかった事態の今こそ、西川さんの姿から学ぶことがたくさんある気がする。

【前編】7本指のピアニストが、絶望から立ち上がるきっかけになった「もう一回弾いて」の一言

(第29回FNSドキュメンタリー大賞『きらきら星を君たちに~7本指のピアニスト~』)