テレビに出演することはないが、密かに注目を集めている芸人がいる。

名前は松元ヒロ、66歳(取材当時)。

主戦場となる舞台の公演はいつも満員で、チケットの入手は困難だ。

社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」を旗揚げし、政治などを笑いで斬る芸風が受け、かつてはテレビで活躍。しかし、今は彼をテレビで見ることはない。

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なぜ、テレビで出会えないのか。

2019年春から1年間、故郷でもある鹿児島のカメラが密着。テレビで会えない芸人から今の世の中をのぞいてみた。

“使いどころ”を気にしたくない

2019年3月。密着を始めたスタッフに、松元さんは「ここが使える、使えない、を考えながらテレビに出るのがイヤで、それなら出ない方がいいと思って断っているんです」とこぼす。

テレビから離れ、舞台で活動を続ける松元さん。

「春と秋にライブをやるんですけど、チケットは完売。最初はテレビに出たくてやっていたけれど、今はテレビに出なくても生きていける。それが嬉しいんです。『いろいろな生き方があるよ』と言いたい」

この日松元さんが車で移動して向かった先は、東京・西東京市にある「まったなしスタジオ」だ。

密着を始めた頃は、数週間後に控えた春公演に向けて練習をしている真っ最中。この日は5時間にも及ぶ稽古を行った。

131冊に及ぶ“ギャグノート”には、思いついたことや、現在の閣僚一覧も貼り付けてあった。松元さんの演目は政治を斬るだけでなく、本や映画も題材にすることもあり多岐にわたる。

昼食は妻の手作りおにぎり。「カミさんが作ったメシじゃないとダメなんです」と顔をほころばせる。

「言っていることは革新的なんですけど、食べるものは保守的なんです」と彼はいつも場の空気をなごませるような話をしてくれる。

弱者の立場からモノを言いたい。

舞台5日前、松元さんは苦悩していた。

難病の男性とボランティアの交流を描いた実話『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史著)を題材にした今回のメイン演目で、松元さん自身が“何を伝えるべきなのか”を悩み続けていたのだ。

松元さんが考える“笑い”。それは、松元さんがテレビを捨てた理由でもあった。

「弱者の立場からモノを言いたいんです。世の中を笑い倒したい。多数派の意見で作られていく今の世の中、テレビもそう。だからこそ小さな声に耳を傾けることに意味があると思うんです」

「ひとり立ち」公演
「ひとり立ち」公演

迎えた舞台当日。東京・紀伊國屋ホールで行われた松元ヒロ「ひとり立ち」公演は、400席のチケットが完売していた。

会場は熱気に包まれ、政治や社会情勢を斬り、時には政治家の名前も飛び出すなど、テンポの良いコントに会場は笑いに包まれる。

規制に縛られる既存のメディアがなかなか取り上げない、声なき声をすくいあげては笑いで一言モノ申す。自主規制はなし、不寛容な社会に言いたい放題だ。

そして、松元さんが苦戦していた『こんな夜更けにバナナかよ』の演目へ進むと、観客はどんどん引き込まれていく。

松元さんは、物語の主人公の「社会に迷惑をかけたっていい。必要なことは人に手伝ってもらうこと。みんな、助け合いながら生きている」という言葉を観客たちに投げかけた。

息子に胸を張りたい!

大学時代に映画を見て、チャップリンに憧れた松元さん。

1975年、23歳のときにパントマイム教室で妻・俊子さんと出会い、1978年、26歳のときに結婚した。

1983年、31歳でコミックバンド「笑パーティー」を結成し、テレビの世界へ。「お笑いスター誕生!!」でダウンタウンなどを抑えて優勝もした。

そして1989年、37歳で社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」でブレイク。日々のニュースを“笑い”にテレビ番組に出演した。

当時、テレビに出演していたのは「人気が出るため」だったという。

松元さんが出演する番組を家族も見ていてくれたが、いつの間にかテレビを見なくなった息子から「同じことやっているだけ」という言葉を受け、テレビから離れることを考え始めた。

「ガーンってきました。息子に胸を張れない仕事はよくないと思って。テレビじゃないなと思い始めたんです。面白いことを言うだけだったら自分じゃなくてもいい。もっとハッキリ言いたいと思って」

こうして1998年、46歳のときに独立し、ソロ活動を始めた松元さん。

紀伊國屋ホールで行われた公演には、現在高校教師をしている息子・大地さんも駆け付けていた。

「父親が何をしているのかと聞かれると説明しにくい」と苦笑しながらも、「他にはいないから。そこらのお笑い芸人よりは誇れます」と明かし、それを聞いた“父”は嬉しそうな顔を見せた。

「令和」のニュースに違和感

2019年5月1日、元号が「令和」になった。

新聞やテレビではこのニュースがたびたび報じられていた。

「テレビもこればっかり報じていて、違和感を持っているんです。森友学園の問題も何も解決していないのに、『みなさん、令和になりました!リセットだ!』みたいな。過去を忘れようみたいな。テレビとかもそういうのを煽り立てて、一緒になってやっている。

中には『関係ないよ。明日の仕事もない』という人もいるはず。でも、それを言ってもテレビは流さない。誰かが水を差さないといけない。おめでたいことですけど、私は水を差しますよ、そんなに騒ぐなよって」

別の日、同じく鹿児島出身でコメディアンのすわ親治さんと再会した。すわさんは、ザ・ドリフターズのステージにも立ち、志村けんさんは兄弟子にあたるという。

コメディアン・すわ親治さん
コメディアン・すわ親治さん

松元さんは高校の同級生だったすわさんと共にザ・ニュースペーパーで活動し、テレビでブレイクするが、その後2人は脱退した。

久しぶりの再会に話は尽きないが、すわさんはこう振り返った。

「テレビもスポンサーがいる。だから、『金丸(信)を“銀丸”にしろ』『竹下(登)を“松下”にしろ』とか言われて、何の毒もなくなった。だから、『じゃあいいです。うちは舞台で勝負しますから』って」

松元さんもうなずきながら、「俺、一人になったら、一人だから好きなことを言おうと思って」と、テレビを離れ自らの信念を貫くことを決めたと明かす。

こう決意した裏には、落語家・立川談志さんが、松元さんの芸人としての生き方を肯定してくれたからでもある。

それは2005年、談志さんが松元さんの舞台へ来たときのこと。談志さんが最後に舞台に立ち、観客に向かって話したことがあるという。

「『みなさんがヒロをここまで育ててくれたおかげで、ヒロの素晴らしい姿を見ることができました。私からみなさんにお礼を申し上げます』って。みんな拍手ですよ。『テレビに出ている芸人はサラリーマン芸人って呼んでいるんだ。

テレビからクビにならないようなことしか言ってない。芸人は他の人が言えないことを代わりに言うことが芸人。お前を芸人と呼ぶ』そう言われたときは、最高に嬉しかったです。この人が言ってくれたんだから、芸人になろうと思ったんです」

50年ぶりに恩師と再会

2020年2月。

故郷で1年ぶりの公演を行うため、松元さんは鹿児島へと帰ってきた。

高校卒業まで鹿児島で暮らしたが、父親はすでに他界していて、実家はもう無い。

故郷を離れて50年近く経つ松元さんは、会えていない人がいると話す。高校時代の恩師で、大学進学を支援してくれた人だった。

その人物は山下義彦さん、94歳(取材当時)。半世紀近く会えていなかった2人だが、山下さんは松元さんが顔を見せると笑顔を見せ、松元さんも手を握りながら、涙ぐんだ。

鹿児島実業高校陸上部に所属していた松元さんは、3年間、恩師の山下さんの指導を受けていた。全国高校駅伝の最終区で区間賞を獲得し、法政大学にスポーツ推薦で進学した。

「今でも支えになっていて、本当にお礼を言いたかった」と言うが、長年会えなかったのにはワケがあった。それは、大学進学を支援してくれたにも関わらず、陸上部を退部してしまったからだ。

それでも、山下さんは優しくほほ笑み、受け入れてくれた。

「人を許す優しさ、人を受け入れる優しさ」

これは松元さんの原点でもある。

さらに山下さんの妻は、山下さんがずっと松元さんを応援してくれていたことを教えてくれた。それを受け、松元さんは「陸上は辞めてしまったけど、お笑いで走ってます」と改めて気を引き締めていた。

故郷での公演は300人が詰めかけ、満員だ。

50年ぶりの再会となった、恩師・山下さんの話も交えながらの公演だった。

永六輔から託された「9条」

松元さんは、舞台直前に必ず行く場所がある。

そこは、東京・渋谷区にある理容室「ウッセロ」。

テレビの草創期から活躍した永六輔さんも通ったと言われ、店には色紙もあった。名曲「上を向いて歩こう」の歌詞も手掛け、晩年はテレビから距離を置き、旅をしながらラジオ活動を続けた。

松元さんは「永さんがザ・ニュースペーパーを見に来てくれたんです。永さんはいろいろなものを見て、自分のゲストに呼ぶんです。見出されたというか、引っ張り出されたというか。ありがたかった」と振り返る。

そして、「うれしいですね。ここで永さんも刈ってもらっていたんですよね」と笑顔を見せながら、舞台に向けて気持ちを切り替えていた。

松元さんには、永さんから託されているものがある。

それは2016年3月、永さんのラジオ番組「六輔七転八倒九十分」(TBSラジオ)に松元さんがゲストに招かれたとき。闘病中の永さんから「9条をよろしく」というメッセージをもらった。

日本国憲法第9条、戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認。

松元さんには日本国憲法を題材にした20年以上語り続ける演目がある。それは「憲法くん」という、日本国憲法を人間に例えた一人芝居だ。

日本国憲法を擬人化した演目「憲法くん」を演じる松元さん
日本国憲法を擬人化した演目「憲法くん」を演じる松元さん

時には笑いを交えながら、日本国憲法の成り立ちや現在の置かれている状況などを語っていく。人々に訴えかける、メッセージ性のある演目だ。

「勉強はダメだから、陸上を始めて。陸上だけじゃイヤだから、いろいろ始めて。学校の先生になろうと思ってもダメで。いろいろなことをやって、芸人が一番ピッタリだった。どんどん蓄積された数十年だった」

こう振り返った松元さんは「俺ってすごいよね」と妻に語り掛けると、妻は「誰も褒めてくれないからね。私が見放したら終わりだったんだよ」と笑う。

松元さんは言う、「私はテレビで会えない芸人です」と。

なぜ、会えないのか。会えないほどの芸とは…。何が彼をそうさせるのか。

「最初はテレビに出たい一心だった。小さいころから見ていたし。でも、テレビがすべてじゃない。多数派、世の中の空気を読めよって言う。一番、“空気”を反映しているのがテレビですよね。でも、空気を反映して戦争になったこともある。世の中の空気を読むんじゃなくて、『ちょっとおかしくない?』と言うべきなんです。このカメラも、本当はそういうことを映し出すものなんです」

テレビで会えない芸人から、今の世の中を少しだけのぞくと、「一人の芸人がテレビから消えた」という、それだけの話かもしれないこの物語に気づく。

“気づけばモノが言えなくなる社会”

2020年は新型コロナウイルスに日本が、世界が揺れた。政治に経済に混とんとした時代が続く中でも松元さんは、理不尽な社会をこれからも“笑い”で斬っていく。

(第29回ドキュメンタリー大賞『テレビで会えない芸人』)

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