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「確かなことは何もないということだけが確か」 復興庁元事務次官が語る、復興の反省と教訓【東日本大震災・復興検証42兆円のゆくえ】|FNNプライムオンライン
わすれない 3.11

「確かなことは何もないということだけが確か」 復興庁元事務次官が語る、復興の反省と教訓【東日本大震災・復興検証42兆円のゆくえ】

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東日本大震災・復興検証42兆円のゆくえ

東日本大震災から15年。復興庁の元事務次官として復興の現場に携わった岡本全勝さんは、道路や住宅、堤防などのインフラ復旧が進んだ一方で、人口減少地域におけるまちづくりや産業の再生には課題が残ると振り返る。集団移転や公共施設の整備をめぐる反省、そして次の大規模災害に生かすべき教訓について聞いた。

「最初は、何をしていいか分からなかった」

仙台放送のインタビューに答える復興庁元事務次官の岡本全勝さん
仙台放送のインタビューに答える復興庁元事務次官の岡本全勝さん
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――東日本大震災から15年。被災地の復興に当たって意識していたことは

津波の被災地について言えば、5年でインフラなどの復興にめどが立ち、10年経てばほぼ終わったと考えるようになった。震災直後に現地を訪れた時の衝撃を思えば、現在の姿を見て、「ここまで戻ったのか」と感じる。ただ、すべてが良かったかというと、様々な問題もあった。焼却炉100年分に相当するほどのがれきを前に、現地の首長と「この先どうなるのだろう」と話した。見通しが立たない以前に、何をしていいのか分からないというのが、私を含めた最初の率直な感想だったと思う。

――何をしていいか分からない状況から、どのように復興を進めたのか。

最初に取り組んだのは、当時の推定で47万人に上った避難者を支えることだ。衣食住はもちろん、当時の避難所、特に体育館の環境は非常に厳しいものだった。プライバシーをどう守るかという問題もあり、温泉などに移っていただく「二次避難」も初めて本格的に取り入れた。次に仮設住宅に取り組んだ。できるだけ早く避難所生活を終え、仮設住宅に入っていただく。秋には5万戸の仮設住宅が完成し、それとは別に約5万戸の借り上げ住宅も用意した。秋には、ほぼ全員の方に避難所を出ていただくことができた。

「初めて」の連続…前例のなかった「町を移す」復興

被災直後の女川町
被災直後の女川町

――東日本大震災の復興には、どのような難しさがあったのか。

大きく三つあった。一つ目は、被害の規模が大きすぎたことだ。通常、災害復旧は県や市町村の役割だが、今回は自治体だけでは手に負えなかった。庁舎自体が被災した自治体もあり、国が直接復興に乗り出すことになった。これは国が本格的に復興に関わった初めての事例だった。

二つ目は、元の場所に住宅を再建できなかったことだ。通常の災害であれば、家が流されても同じ場所に建て直す。しかし今回は、「もう二度と津波に遭いたくない」「危険な場所には戻りたくない」という住民の思いもあり、高台や内陸への集団移転、土地のかさ上げが行われた。住宅や町を元の場所に戻せず、新しい町をつくらなければならなかった。これは日本で初めての大規模な経験だった。

三つ目は、人口減少と高齢化が進み、若い人が戻ってこない地域で町を再建しなければならなかったことだ。これまでの災害復旧は、道路も住宅も学校も「元に戻す」という考え方だった。しかし今回は、元に戻すことで無駄が生じたという批判を受けた。実際、私もそれを認めざるを得ない。

――住民の集団移転は、どのように計画を決めていったのか。

避難所から仮設住宅へ移った後、次に「町を移す」という議論が始まった。市町村も国も経験したことがなく、本当に手探りだった。結果として、約370か所の集落を移転、あるいはかさ上げした。どこへ移すのか、どの程度の規模の町にするのかを、地区単位で議論してもらった。平均すると、合意形成に約1年かかった。そしてそこから設計、施工に入り、結果的に完成までに4、5年かかった。その間に、当初は「戻りたい」と言っていた人たちが、「もういい」と戻らないケースも出てきた。毎年、住民意向調査を行い、ニーズを確認していたが、戸建て住宅を希望していた人が、途中で公営住宅を希望するようになり、住宅の種類を変更しなければならないケースもあった。

町の中心部に住宅を集約した現在の女川町
町の中心部に住宅を集約した現在の女川町

宮城県・女川町では、中心部から離れた高台に複数の住宅団地を計画していた。しかし、毎年調査をすると戻る人が減っていく。そこで須田町長と相談し、遠い場所の計画を延期し、最終的には取りやめた。「住まないところにつくっても仕方がない」という判断で、住宅を町の中心部に集約できた。これはうまくいった例だ。

一方、岩手県・陸前高田市では、現在地をかさ上げし、最初に公共施設や道路、住宅を面的に配置する計画を描いた。そのため、途中で集約するのが難しく、結果として市街地が虫食い状態になった。一度、面的に計画を描いてしまうと、縮小は簡単ではない。計画を変更すれば、また時間がかかるからだ。

――半島部の小さな集落については、どのような課題があるのか。

宮城県・石巻市を例にすると、半島部にはいくつもの集落が点在している。入江ごとに漁港があり、そこに漁民が住んでいる。そのため、漁港を復旧し、海の近くは危険なので、すぐ後ろ山を造成して集落を移す。私も当初、当然だと思ったが、完成後に住民の意見を聞くと、別の方法もあったのではないかと思うようになった。

小さな集落には、学校も病院も商店もない。子育て世代は町の中心部まで学校や保育園、商店を利用しに行く。高齢者も病院へ通わなければならない。それなら、住宅は市街地の近くに整備し、漁業に携わる人が車で漁港へ通うほうが良いのではないかと。会社員が自宅から職場へ通勤するのと同じだ。

昔は集落の中で生活が完結していたのだろう。しかし、今の時代、学校や病院、商店がない場所は住みにくい。市街地の近くに住宅を集め、働く人が漁港や漁場へ通う方が、住民にとっても便利だったのではないかと思う。小さな集落をたくさん再建すれば、上下水道などの整備費も維持管理費もかかる。20年後、30年後に集落を維持するのは難しい。後継者がいなければ、空き家も増えるだろう。なぜ「住宅と職場を逆転させる」という発想がなかったのか。完成してから、そう考えるようになった。この問題は能登半島地震の被災地でも同じことが言えると思う。

人口減少を認識しながら、復興に結び付けられなかった

――人口減少は震災前から予想されていた。再建計画に十分反映できなかったのか。

震災当時、復興構想会議が示した基本方針には、はっきりと「人口減少下での復興」と書かれていた。我々も当然、人口減少は認識していた。しかし、社会全体が人口減少になると分かっていながら、現地の復興に十分結び付けることができなかった。そこは我々の反省で理由は大きく二つある。

一つは、道路や堤防だ。日本では、災害が起きれば、関係機関が現地へ行き、道路や堤防を早急に元に戻すという手順が定まっている。次の災害が来たら大変なので、できるだけ早く復旧するという考え方だ。ところが今回、堤防や道路を復旧すると、「人が住んでいないではないか」という問題が起きた。住宅地も同じだ。元の住宅地と同じ規模で整備しても、そこに人がいない。インフラの復旧と、人口減少を踏まえた町のつくり替えが、別々に進んでしまった。

もう一つは、自治体にとって「縮小」を住民に示す難しさだ。ある市長は、人口が1割、2割増える復興計画をつくった。私は「現実的ではないのではないか」と尋ねると、その市長は「人口が急速に減ることを市民に示すのは、政治家としてつらい。市民に夢を持ってもらいたい」と答えた。その気持ちは分かる。一方で、明らかに使われないものをつくるわけにはいかない。住民意向調査を重ね、規模を縮小していった。

――人口減少を前提にした場合、どのような整備が考えられるのか。

施設ごとに考える必要がある。学校は、将来、子どもの数が減ることが分かっていても、今いる子どもたちのために整えなければならない。住宅も同じで高齢者が多いからと言って、最初から減らすことは難しい。ただし、「場所」を変えることはできる。小さな学校や住宅を離れた場所に整備するのではなく、市の中心部に寄せて通ってもらう、あるいは住んでもらうという考え方だ。

市役所や文化会館については、この際立派なものを造りたいという自治体側の思いもあっただろう。今回の復旧・復興は全額が国費で、自治体の負担がなかった。もし市町村にも少し負担があれば、もう少し考えてもらえたのかもしれない。これは、その後の課題の一つだ。

維持管理費は将来世代の負担になる

町中心部に機能を集約した女川町
町中心部に機能を集約した女川町

――復興後のインフラの維持管理費が今後の課題になる

当時から、維持管理費がかかることは分かっていた。集落をつくれば、上下水道を整備せざるを得ない。しかし、人口が減る中で、上下水道の維持管理は大きな負担になる。公営住宅や小中学校も同じだ。実際、岩手県では、復興の過程でつくられた小学校がすでに廃校になった例がある。では、造らなくてよかったのかというと、やはり整備せざるを得なかった施設も多かったと思う。ただ、集落を集約し、コンパクトシティにするという大胆な発想は、選択肢としてあった。

被災地では工事が集中したため、今後、更新時期も重なる。ただ、これは被災地だけの問題ではない。日本全国で同じことが起きている。小中学校の統廃合はすでに進んでいる。橋を復旧せず、通行止めにするという話もある。人口が50年、100年かけて緩やかに減れば対応できる部分もある。しかし、短期間で急速に人口が減り、まだ住民がいるのに集落そのものが小さくなる。これは日本の地方が避けて通れない大きな課題だ。

「確かなことは何もない」次の災害への教訓

――次の大規模災害に備える上で、東日本大震災の教訓は何か。

あらゆる備えは大切だ。しかい「想定外は確実に起きる」ということを忘れてはいけない。誰も、あのような東日本大震災が起きるとは思っていなかった。熊本で大地震が起きることも、多くの人は想像していなかっただろう。経験とは違う次元で、想像もしなかったことが起きる可能性がある。

「確かなことは何もないということだけが確かだ」。少し同語反復的な表現だが、そう考えておく必要がある。東日本大震災で初めて本格的に突きつけられたのは、「人口減少下での大規模災害」だった。人口減少を見据えた集落のあり方や、将来人口が減ると分かっていても整備しなければならない施設について、次の災害では工夫を考えてほしいと思う。

ただ、被災者には一日も早く元の生活に戻りたいという強い思いがある。将来を見据えたまちの姿を考えるには、どうしても時間がかかる。「早く戻してください」という思いと、「少し待って、将来のことを考えさせてください」という必要性をどう折り合わせるか。これは、市町村長をはじめとする地域のリーダーの役割だと思う。東日本大震災の反省を、次の災害で生かしてほしいと思う。

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