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戦後81年 “戦争の時代”へと突き進んだ過去 「ものを言わぬ」戦争遺跡が伝える記憶 訪れる人もいない山中に眠る巨大な遺構 【福岡発】|FNNプライムオンライン
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戦後81年 “戦争の時代”へと突き進んだ過去 「ものを言わぬ」戦争遺跡が伝える記憶 訪れる人もいない山中に眠る巨大な遺構 【福岡発】

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終戦から81年。戦争の記憶をとどめる“もの言わぬ”遺跡。戦争の時代へと突き進んだ過去から何を学ぶのか山中に残る巨大な遺構を訪ねた。

戦争遺跡の調査研究の第一人者

欧米列強に対抗し戦争の時代へと突き進んだ、世の中の“高ぶり”を伝えるもの言わぬ証人たち。

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官営の製鉄所や兵器工場を擁する『軍都』として栄え、広島に次ぐ2発目の原爆投下目標ともされた北九州には、終戦から81年が経つ今も多くの戦争遺跡が残っている。

2026年8月6日、広島原爆の日。かつて地域を見舞った八幡空襲について講義したのは、北九州市の郷土史家、前薗廣幸さん(74)。砲台や要塞など、戦争遺跡の調査研究の第一人者だ。

前薗さんは、戦争体験者が年々少なくなるなか、遺構や遺物を通して『戦争の記憶』を残したいと考えている。

2025年11月18日、草木が枝葉を落とし現地調査に最適だという冬枯れの時期に前薗さんに同行し、小倉南区の高蔵山に残る戦争遺跡を目指した。

明治時代の砲台陣地『高蔵山堡塁(ほるい)』

周防灘を見下ろす標高357メートルの高蔵山。

荒れた山道を登っていくと陸軍が拓いた軍用道路に行き当たる。

「明治時代の軍用道路です。堡塁に物資の補給だとかするための道路ですけど、きちっとやっぱり山側にこういう石垣を築いて道路の保全に当たってます」と話す前薗さん。

江戸時代には、城の石垣を手掛けたであろう当時の石工が積んだ明治の石垣。受け継がれた城造りの技術が百数十年の雨風に耐えていた。

「地帯標です。下関要塞第一と書いてある」(前薗廣幸さん)。発見したのは要塞地帯標。陸軍省の標識も確認できる。重要拠点の関門海峡を防御する、下関要塞地帯であることを示す標識だ。

点在する遺構や遺物を辿りながら歩くこと2時間半。目指す高蔵山堡塁が近づく。

山頂近くに明治時代の砲台陣地『高蔵山堡塁』が姿を現す。山の中に残る異様な光景。砲台陣地は、すっかり森に還っていた。「壮観でしょ」と前薗さんは笑う。

日露戦争に備えて築いた陣地

今から126年前の1900年(明治33年)に完成した高蔵山の堡塁跡。山頂の南側に開けた標高290mの尾根に築かれていて、約60mに渡って連なる8つのアーチが目をひく。しっかりした造りだ。

「掩ぺい部。兵士の休息所です。それと食糧や物資の倉庫ですね。(造りも)しっかりです。立ち上がりのところは赤煉瓦なんですけど、ドームになっている屋根の部分は、全部コンクリートです。だから相当の爆弾が当たっても壊れない構造ですね」(前薗廣幸さん)。

高蔵山堡塁は、日清戦争に勝利した日本が、日露戦争に備えて築いた陣地だ。

軍艦による戦いが主流だった当時、周防灘からの艦砲射撃に耐え、上陸してくる敵を砲撃して関門海峡を背後から守ることが使命だった。

天井の高さは3m、間口は5mで、両端の2部屋を除いて12mの奥行きがあり、弾薬や物資の保管庫として使われていたため、入口の壁と奥の天井には湿気を逃がす換気口が設けられている。

陸軍が拠点 大がかりな陣地の痕跡

裏側に回ると周防灘に向けて配置されていた砲台の跡が残っている。

木々が大きく育った今、海を見渡すことはできなくなっているが、掩ぺい部を取り囲むかたちで6つの砲座が設けられ、カノン砲6門と臼砲6門が据え付けられていた。

コンクリートの分厚い天井を持つ半地下式の構造物は、砲座の傍に砲弾を準備しておくための砲側弾薬庫だ。

その他にも雨水を濾過する浄水設備。8つの個室が並ぶトイレなど陸軍が拠点としていた大がかりな陣地の痕跡が、そこかしこに残っている。

「これだけのものを国費で造ってるということを見てもらいたい。日清、日露で危うくも勝ってしまったもんですから、それが第二次世界大戦のように『我が国は絶対負けない国』という戦前の教育に、これは繋がっていくのかなと思ってます」(前薗廣幸さん)。

結局、実戦では1発の砲弾も撃つことなく高蔵山堡塁は1932年(昭和7年)に役目を終える。しかしその後、太平洋戦争が始まると敵機を照らすサーチライトが据え付けられ、再び兵士が詰めることになった。

有田焼の茶碗と波佐見焼の急須の蓋

2026年8月、その後の調査で太平洋戦争中の遺物が見つかったという知らせを受けて前薗さんを訪ねた。

「これは、陸軍の軍用食器でご飯か何か、汁物かそういった茶碗になりますね」と前薗さんが見せてくれたのは、陸軍のマークが入った厚手の茶碗。専門家の鑑定で有田焼だと判明した。

このほかにも「急須か湯飲みのフタだろうと思うんですよ。ただこれは軍用食器には、ちょっと馴染まないですね」と示した波佐見焼の急須の蓋は、梅の花の絵柄から、軍用の食器ではなく、兵士が家から持ち込んだものとみられる。

「本来の軍用食器ではない家庭用食器まで兵隊さんに持ち込ませていた軍隊のあり方っていうか、そこまで疲弊していた軍隊というのが、こういった物を通じてお話しできるのかな、証明できるのかなと思ってます」(前薗廣幸さん)。

訪れる人も少ない山の中に残る戦争の記憶ー。

日清・日露戦争に勝利した勢いのまま、高揚感も背景に戦争の時代に突入した当時の世情が伝わる巨大な遺構。圧倒的な国力差から疲弊し切って敗戦した、その後の末路が伝わる急須の蓋。

多くの犠牲と喪失を伴った戦争の記憶を伝える遺構や遺物から何を読み取るのか。国が軍備増強へと舵を切り、戦後が終わり、新たな戦前を迎えたとの指摘も聞かれるなか、しっかりと向き合いたい。

(テレビ西日本)

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